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*ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン #amazon(4150017689,text,image) 題名:ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン 原題:The Best American Mystery Stories 2002(2002) 作者:ジェイムス・エルロイ&オットー・ペンズラー編 James Ellroy, Otto Penzler 訳者:木村二郎、古沢嘉通、他 発行:ハヤカワ・ミステリ 2005.3.15 初版 価格:\1,900  アメリカの短編小説が翻訳される機会は非常に少ないと思う。もしかしたらアメリカ人は短編小説なんて書かないんじゃないか、と錯覚を起こしそうになってしまう。  ぼくがアメリカの短編小説をとても面白いと感じたのは、近年ではローレンス・ブロックの『おかしなことを聞くね』『バランスが肝心』『夜明けの光の中に』の短編集三部作だった。すべての短編がどれもこれも面白く愉快で、怖くてどきどきさせられた。  オットー・ペンズラーはミステリをこう定義づける。  「犯罪か犯罪の脅威がテーマかプロットの核をなす作品」と……。  ローレンス・ブロックの短編集はまさにこの定義で、そして何よりも素晴らしかった。普通の長編小説よりも分厚いのは、短いが素晴らしい作品が山ほど収録されているからだ。  『ベスト・アメリカン・ミステリ』と名づけられたこの毎年一冊ベスト20作の短編を収録したシリーズも、その辺の長編一冊よりはよほど分厚い。ぼくは、このシリーズをDHCが出版していた『アメリカミステリ傑作選2001』(オットー・ペンズラー&エド・マクベイン編)で最初に読んだ。(→当時の感想は[[こちら>http://www21.atwiki.jp/fadv/pages/428.html]])  失業中、時間が有り余っていたときの一冊にぼくは引き込まれたのを覚えている。それにいつも見慣れた作家たちの名前があり、同時に聴いたこともない作家の名前があり、短編しか書かない人の名前までもが並んでいて、本当に絢爛豪華で公平性に満ちていてとても楽しい。  DHCから翌年以降の翻訳権を引き受けたのが、われらがハヤカワ・ポケミスであったこともなんだかとても嬉しい。身近にきたっていう感じで、肌がざわざわしてくる思いだ。  期待したサブタイトルのR・B・パーカー『ハーレム・ノクターン』は何と先に読んでいた長編『ダブルプレー』のあのシーンだった。確かに名シーンだけれども。  そういえばクラムリーの短編集『娼婦たち』のうち『メキシコのリュウキュウガモ』が長編『友よ戦いの果てに』のスターティングに丸ごと使われたことがあった。  そういえば村上春樹の『ノルウェイの森』のスタート部分は、短編集『蛍・納屋を焼く』の『蛍』まるごとで始まるのだった。  こんな例はいくらでもあるのだろう。ときには短編は、そのまま複雑化されて長編に化けたりもする。ときには短編はそれでも長編を上回ることがある。  そういえば浅田次郎は短編はペンで書き、長編はワープロで書くという。短編と長編の「書きかたの違い」、あるいは「書き手の姿勢」をよく言い表していないだろうか。  ハヤカワは矢継ぎ早に次の2003年度版を出版したので、ぼくはすぐにそちらに取り掛かっている。今度はエルロイからコナリーにバトンタッチだ。コナリーは、本書以降この方ずっと短編に嵌っているみたいだ。そのうち出版されるであろうコナリーの短編集が早くも楽しみでならない。  ちなみに、ぼくが本書でとても気に入った短編は、ジェイムズ・グレイディ『幻のチャンピオン』、クラーク・ハワード『コバルト・ブルース』、ジョー・R・ランズデール『ラバ泥棒』、F・X・トゥール『夜の息抜き』、そしてもちろんマイクル・コナリー『二塁打』である。 (2005.04.21)
*ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン #amazon(4150017689,text,image) 題名:ベスト・アメリカン・ミステリ ハーレム・ノクターン 原題:The Best American Mystery Stories 2002(2002) 編者:ジェイムス・エルロイ&オットー・ペンズラー編 James Ellroy, Otto Penzler 訳者:木村二郎、古沢嘉通、他 発行:ハヤカワ・ミステリ 2005.3.15 初版 価格:\1,900  アメリカの短編小説が翻訳される機会は非常に少ないと思う。もしかしたらアメリカ人は短編小説なんて書かないんじゃないか、と錯覚を起こしそうになってしまう。  ぼくがアメリカの短編小説をとても面白いと感じたのは、近年ではローレンス・ブロックの『おかしなことを聞くね』『バランスが肝心』『夜明けの光の中に』の短編集三部作だった。すべての短編がどれもこれも面白く愉快で、怖くてどきどきさせられた。  オットー・ペンズラーはミステリをこう定義づける。  「犯罪か犯罪の脅威がテーマかプロットの核をなす作品」と……。  ローレンス・ブロックの短編集はまさにこの定義で、そして何よりも素晴らしかった。普通の長編小説よりも分厚いのは、短いが素晴らしい作品が山ほど収録されているからだ。  『ベスト・アメリカン・ミステリ』と名づけられたこの毎年一冊ベスト20作の短編を収録したシリーズも、その辺の長編一冊よりはよほど分厚い。ぼくは、このシリーズをDHCが出版していた『アメリカミステリ傑作選2001』(オットー・ペンズラー&エド・マクベイン編)で最初に読んだ。(→当時の感想は[[こちら>http://www21.atwiki.jp/fadv/pages/428.html]])  失業中、時間が有り余っていたときの一冊にぼくは引き込まれたのを覚えている。それにいつも見慣れた作家たちの名前があり、同時に聴いたこともない作家の名前があり、短編しか書かない人の名前までもが並んでいて、本当に絢爛豪華で公平性に満ちていてとても楽しい。  DHCから翌年以降の翻訳権を引き受けたのが、われらがハヤカワ・ポケミスであったこともなんだかとても嬉しい。身近にきたっていう感じで、肌がざわざわしてくる思いだ。  期待したサブタイトルのR・B・パーカー『ハーレム・ノクターン』は何と先に読んでいた長編『ダブルプレー』のあのシーンだった。確かに名シーンだけれども。  そういえばクラムリーの短編集『娼婦たち』のうち『メキシコのリュウキュウガモ』が長編『友よ戦いの果てに』のスターティングに丸ごと使われたことがあった。  そういえば村上春樹の『ノルウェイの森』のスタート部分は、短編集『蛍・納屋を焼く』の『蛍』まるごとで始まるのだった。  こんな例はいくらでもあるのだろう。ときには短編は、そのまま複雑化されて長編に化けたりもする。ときには短編はそれでも長編を上回ることがある。  そういえば浅田次郎は短編はペンで書き、長編はワープロで書くという。短編と長編の「書きかたの違い」、あるいは「書き手の姿勢」をよく言い表していないだろうか。  ハヤカワは矢継ぎ早に次の2003年度版を出版したので、ぼくはすぐにそちらに取り掛かっている。今度はエルロイからコナリーにバトンタッチだ。コナリーは、本書以降この方ずっと短編に嵌っているみたいだ。そのうち出版されるであろうコナリーの短編集が早くも楽しみでならない。  ちなみに、ぼくが本書でとても気に入った短編は、ジェイムズ・グレイディ『幻のチャンピオン』、クラーク・ハワード『コバルト・ブルース』、ジョー・R・ランズデール『ラバ泥棒』、F・X・トゥール『夜の息抜き』、そしてもちろんマイクル・コナリー『二塁打』である。 (2005.04.21)

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