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*いのちに抱かれて 楓子と大地の物語 #amazon(4198622906,text,image) 題名:いのちに抱かれて 楓子と大地の物語 作者:鳴海 章 発行:徳間書店 2007.02.28 初版 価格:\1,800  『輓馬』を読んだのが、ちょうど1年前の2006年5月。映画化作品『雪に願うこと』を息子と一緒に劇場に観に出かけたのも、実は同じ時であった。本を読んで、映画を観ようと、そういう順番で輓馬のことを、鳴海章のことを、映画のことを知りたくなったのだ。  ばんえいの馬が映画の上映に併せて本州に渡りキャンペーンを打ったのもその頃。しかし、一方で北海道内では今年のばんえい競馬の状況を見て存廃を決めるということも新聞記事で日々散見されていた。ばんえい競馬は開拓を助けた農耕馬文化に根を持つ、世界一大きな輸入馬たちによる世界で一つしかない競馬レースである。  そのばんえい競馬を開催してきた四市開催が断たれたと道内の新聞で発表されたのが、2006年12月の頭だった。帯広は一市での継続は不可能と言い、そこから市井の人々、輓馬関係者による署名存続運動が始まった。普段は輓馬を観に行きもしない人たちが、なくなるならば話は違うと署名を集めた。  本書は『輓馬』の続編ではない。都会でOLをしていた楓子が、父の死をきっかけに郷里の十勝に帰って、実家の馬産農家の仕事に本腰を入れていこうという話だ。そこで一頭の二才馬ダイチと出会い、再生しようという話だ。確かに『再生』というテーマでは二つの物語は良く似ている。しかし『輓馬』がばんえい競馬の調教やレースに光を当てたのに対し、こちらは馬産農家というより下野の目線で書かれた裾野の物語である。 しかし本作は現実という地平の上では、『輓馬』のレースの世界ともかなり密接した続編であると言える。2000年の作品『輓馬』でも既にばんえい競馬の経済的脆弱さは書かれていたが、社会的存廃のリミットまで事態が進行してきた危機感は、かつての『輓馬』以上の地点にあり、今年は危うく撤廃を逃れたばんえい競馬だって、来年以降いつまで続いてくれるのものか、正直、大変心もとない。  馬産農家の商売は輓馬の馬を作ることであるから、失業は眼に見えている。楓子は作中で、本業として綿羊や乳牛などに頼ることを考え、新得町で実施しているレディース・ファーム・スクールを受講し始める。  何よりも本書で描かれているのが、ばんえいに纏わる人々の生活と、これらを巻き込んだ経済状況であり、署名運動であり、輓馬の文化としての悲鳴であることに感動を覚える。  12月、ばんえい廃止の色濃い時期に、ソフトバンクが名乗りを上げ、帯広市長が一市開催によるばんえい存続を発表した。私はその夜、WEB日記にこう記している。 > 『輓馬』を書いた鳴海章という帯広在住の作家は、地元に利をもたらしたことになるのだけれど、今夜は彼なりに祝杯を挙げることができたのではないだろうか。あの作品が映画化されるほどの良作でなかったら、今頃ばんえい競馬の存続はなかったかもしれない。多くの人の生活が断ち切られていたかもしれない。 > 文化が人の生活を守り、いくつもの人や馬の命を守ったことになるかもしれない。ある種の快哉に値することだと思う。  同時に、さらに鳴海章に心の中で期待していたのは、地元作家としてばんえいの物語をさらに書いて欲しいということだった。何とも恥ずかしいことに、私の取っている「北海道新聞 日曜版」に、本書は連載されていたのだそうである(連載時タイトル『楓子のダイチ』) 。鳴海章はとうにばんえいへの応援を再開していたし、それは今、こうして一冊の本になって私の前に存在を示しているのである。  さて、ばんえいの存廃に興味のない方でも、物語自体は独自に楽しめるはずだし、もしかしたら私と同じように、ラストのシーンでは涙が溢れそうになるかもしれない。馬が懸命に走る。その自然な姿を文章の中で想像するだけで、何故にこうも泣けてきてしまうのか。そのマジックは、作品が見せてくれるので、是非、改めて手にとって頂きたいものである。 ※本作も映画化されるといいのだが…… (2007/05/06)

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