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*レディ・ジョーカー #amazon(4620105791,text,image) #amazon(4620105805,text,image) 題名:レディ・ジョーカー 上/下 作者:高村薫 発行:毎日新聞社 1997.12.5 初版 価格:各\1,700  ここ10年の日本ミステリーで一番の傑作!   まるで『鷲の驕り』に寄せられたどこかの評論家のセリフみたいな言い回しだけれど(笑)、まさにこのセリフ、この作品にこそぼくは捧げたいと思う。  一言で言って、割り切れる思いとは縁遠い作品であるけれど、その割り切れなさこそが、現代の最もリアルな活写であるという気もしてくる。ましてや、あまり光を当てられることのない、タブーに属するような被差別民や在日他民族の世界が、同じ日本という狭い世間の中にまぎれもなく混在していて軋轢を起こしているその断面を、この小説がそんなことをテーマにしているのでないのにも関わらず、何のためらいもなくすっぱりと切り出して見せてくれている。  前作『照柿』では、ドストエフスキーの『罪と罰』のような個人の内面を深くえぐった地獄行のような世界がひたすら描かれていたが、今度の『レディ・ジョーカー』はより社会を取り込んだ、よりマクロ的な視野において、より巨大な時空間を意識した、新しい世界を見せてくれている。見るからに書くのはかなり困難だろうと思われる描写が多く、手間ひまをかけて準備されて書かれたもの特有の密度がここにある。  そして大きな小説であるだけに、集中力は削がれるところもあるものの、人間がいかに社会的な存在であるのか、という作者なりの方向がきちんと見えてきて、純文学とは一線を画しているような新たな転換のようなものを、ぼくは作者の書く姿勢に感じて嬉しかったのだ。  ぼくは以前から高村の世界はドストエフスキィの世界を規範にしているように感じていたのだが、それはまたもこの作品で裏打ちされている。ドストエフスキィの魅力は一言で言えば「混沌」。トルストイのように正邪をきちんと整理してキリスト的「道」を解いてゆく作家なのではなく、「混沌」そのものをいかに表現し、その中でいかに生そのものを描き切るのか。具体的にはいかに社会とより真摯に切り結んでゆくかという物語であり、一人一人の心の中の悪霊たちの物語でもある。  ドストエフスキィは『作家の日記』という時事評論をものにしているが、まさに文学だけにおさまらない懐の深さ、視点の多さ、視野の広さを、そうした地点で示してくれていて、この辺り高村のやり方には近いものがあるのではないだろうか。  現代でドストエフスキィの犯罪を中心に据えた小説作法をやろうとしたら、高村のこの『レディ・ジョーカー』は、非常によくできた手法と言えるのではないだろうか。犯罪そのものを物語とするのではなく、もっと書きたいものごとのために、犯罪を中心に据えるのだ。『レディ・ジョーカー』はそういう小説ではないかと思うのである。  馳星周がエルロイの影響をダイレクトに受けたという『鎮魂歌』は、まさに『ホワイト・ジャズ』の文体に機を得たものだと思われるが、今、小説世界の闇の深さという一点だけに絞ってみると、この『レディ・ジョーカー』こそエルロイのあの深い闇に再接近したそれではないだろうか?  ぼくはこのことだけでも大変この小説に衝撃を受けた。  以前から鼻についていた高村小説特有のホモっ気は、相変わらず直っていないけれど、そんなものはこの際許してしまおうとさえ思った。  ラストのラストで感動させられた。闇に抛り込まれた人や事件があまりに多い。しかし、ぼくらが生きている世界はそうした闇にいつでも繋がっているし、ぼくらはその中で何の痛痒もなく無関係な顔をして生きている。そうした平穏が通用しなくなる世界の怖さ、のようなものをこの小説は非常にシニカルに描き切っているように思うのだ。  さて、最後に値段のことだが、一冊1,700円で、こうした「質量ぎっしり本」を買うことができるのには驚きである。そこらの文庫本数冊分より遥かに安い買い物となったのは、かつて『砂のクロニクル』でハードカバーの四段印刷という荒業をやらかし革命的コスト・パフォーマンスを見せてくれた毎日出版社という良心のたまものであろう。こうした出版姿勢を持った版元にこそ、いい作品が集まって欲しいと、願ってやまない。 (1998/01/04)

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