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*楽園の眠り #amazon(4198620636,right,text,image) 題名:楽園の眠り 作者:馳 星周 発行:徳間書店 2005.09.30 初版 価格:\1,600  元々は書評家・坂東齢人であり、エッセイスト・佐山アキラであり、FADVにあってはバンディーダというハンドルの、オフ&チャット好きのパンク青年であった彼は、『不夜城』のヒット以来、作品そのものの価値よりもずっと、馳星周というノワール作家ブランドの方に、居心地のよさを見出してしまったみたいだ。駄目だなあ、といつも彼を見ていて思った吐息が、今も継続してぼくの口から洩れる。立派かもしれないけれど、それじゃあ駄目だよ……と。  自分で構築した有名作家という名の防壁に囲繞され、出口なしの戦いを強いられて抜け出せないでいるようにも見える。転がる石を山頂に向けて際限なく持ち上げているシーシュポスだ、まるで。  彼がまだ、ぼくの近くにいて、酒を浴びるように呑んでいた頃。そう、始終、胃を痛めては、独りの部屋で胃液を撒き散らして苦しみ、水を飲みすぎてさらに腹具合をこじらせていたあの頃、ぼくは、彼にアンドリュー・ヴァクスという作家を勧められて、まさに嵌まったものだった。ヴァクスの独特なテンポの表現に。ぶつ切りの短い文章が構成する闇の世界の、あまりの休息のなさに呆れつつ。彼の書く人間たちは誰もが、楽園の眠りからはおよそ遠いところで、浅き眠りを貪る、都会の堕天使たちだった。  馳星周は、ヴァクスや、彼のピンチヒッターであるバークがこだわり続ける幼児虐待というテーマに特段惹かれていたわけではない。彼はアウトローな主人公バークの、非常に腰抜けな部分に共感していたのだ。怯えと恐怖がもたらす慎重は、バークの日々をいく重もの備えで鎧っている。滑稽なまでの警戒心と、暴力への準備とが、バーク・ワールドの特徴である。その根幹に蹲るのが、馳いわくバークの真の姿「へなちょこ」さである。  あの「へなちょこ」さ。徹底して格好悪く、体裁悪く、それがゆえに決してこの世の至福を味わえないだろうに、忍者のように隠遁し、この世での不在を自らに唱え続ける。そんな無様さが、幼児虐待の過去を背負ったバークの心の怯えで病的なまでの臆病さだ。  偶然ではないかもしれない。馳星周がこの作品で挑んだテーマは幼児虐待である。もちろん現実に今、日本で、起こっていることである。DVと呼ばれ新聞紙面を本格的に賑わすようになった、架空ではない、悲しきリアリズム。  これまでこの世の生き地獄を描くことに専念してきたかに見える馳。ノワール作家として、自らの髪を金髪に染め、本来はやに下がったような目なのに、そいつを真っ黒なサングラスで覆い、ネガティブなマスクに自分を隠し続けている男。まるでバークのように、自らの本当はウェットであるはずの部分をうまいこと消し去り、徹底していきがっている作家。  ぼくが知る限り、彼が最も信頼を分かち合える評論家は、吉野仁であると思う。その吉野氏が自らのWEB日記で、「鬼ごっこ小説」という、非常に楽しいジャンル分けをしている。そのなかで例に出されたのが「海外だとアラン・フォルサム『皇帝の血脈』(新潮文庫)で、国産だと馳星周『楽園の眠り』(徳間書店)」なのだった。  最近の馳作品に関して言えば、ぼくは『生誕祭』のような毛色の変わった小説が大変嬉しかった。しかし、『長恨歌』のような『不夜城』の栄光に頼った作品に関して言えば、楽しめこそすれ、本当の満足感は得られずに終わっていたのだ。そこへゆくと、この『楽園の眠り』は馳が、そもそもの原点である娯楽小説の醍醐味に徹して、緻密なプロットを練り上げた一級の作品であるように思える。  まるでウェストレイクの小説を思わせる逆転、また逆転と、疾走感溢れるストーリー展開でありながら、その乾いた楽しさがとことん味わい切れずに終わるのは、やはり連れ歩く幼児の肌に残されて消えない虐待の痕跡という、あまりにネガティブなテーマのせいだろうか。  それにしても、追跡者と逃亡者が何度もスリリングな場面を演出し合う、本当の意味での鬼ごっこ小説ぶりは、吉野氏が挙げるだけあって、実に素晴らしい。道行きの途上、増えてゆく脇役たちが、さらに独自な動きを加えることで、世界がより複雑化してゆく展開にしても、とてもダイナミズムに溢れ、読み応えがあると思う。  ただ物語の収束の仕方は、やはり馳星周とうブランドに戻ってしまうのだ。ノワール作家というブランドをかなぐり捨てて感涙のラストシーンに持ってゆくことは、この作家ほどの力量ならばいくらでもできただろう。どの小説だって絶対にハッピーエンドでは終わらせない、俺はノワール作家なのだから、と豪語する馳というマスクド・マンは、やはりメディアが生み出した奇怪な怪物であり、ジャンルに縛られる道化師なのだ。  それにしても、やはり、ぼくは理不尽である。馳星周という作家を、作品の方がその枷ゆえに超えられないことが。たまらなく。メディアの呪縛から、逃れ、翔け、と希う。バン(と呼んでいました、俺は)ならば、馳以上の作品がもっとずっと書けるはずなのに、何故か悔しい。  彼が馳星周であることをやめたとき、あるいは馳星周がノワール作家を標榜するのをやめたとき、彼には、呪縛から逃れ、好きな作品を書いて欲しい。例えば、ぼくは、彼の恋愛小説が本当に読みたい。あるいは、日高出身のへなちょこな青年が都会で闘う懸命な小説なども読みたい。  本書の結末を本当の意味で違う作品によって書き改めるときが来る日を、心から待ち望む自分がいる。  作家は、作品を超えて存在してはいけないのだよ。 (2006/02/27)
*楽園の眠り #amazon(4198620636,right,image) 題名:楽園の眠り 作者:馳 星周 発行:徳間書店 2005.09.30 初版 価格:\1,600  元々は書評家・坂東齢人であり、エッセイスト・佐山アキラであり、FADVにあってはバンディーダというハンドルの、オフ&チャット好きのパンク青年であった彼は、『不夜城』のヒット以来、作品そのものの価値よりもずっと、馳星周というノワール作家ブランドの方に、居心地のよさを見出してしまったみたいだ。駄目だなあ、といつも彼を見ていて思った吐息が、今も継続してぼくの口から洩れる。立派かもしれないけれど、それじゃあ駄目だよ……と。  自分で構築した有名作家という名の防壁に囲繞され、出口なしの戦いを強いられて抜け出せないでいるようにも見える。転がる石を山頂に向けて際限なく持ち上げているシーシュポスだ、まるで。  彼がまだ、ぼくの近くにいて、酒を浴びるように呑んでいた頃。そう、始終、胃を痛めては、独りの部屋で胃液を撒き散らして苦しみ、水を飲みすぎてさらに腹具合をこじらせていたあの頃、ぼくは、彼にアンドリュー・ヴァクスという作家を勧められて、まさに嵌まったものだった。ヴァクスの独特なテンポの表現に。ぶつ切りの短い文章が構成する闇の世界の、あまりの休息のなさに呆れつつ。彼の書く人間たちは誰もが、楽園の眠りからはおよそ遠いところで、浅き眠りを貪る、都会の堕天使たちだった。  馳星周は、ヴァクスや、彼のピンチヒッターであるバークがこだわり続ける幼児虐待というテーマに特段惹かれていたわけではない。彼はアウトローな主人公バークの、非常に腰抜けな部分に共感していたのだ。怯えと恐怖がもたらす慎重は、バークの日々をいく重もの備えで鎧っている。滑稽なまでの警戒心と、暴力への準備とが、バーク・ワールドの特徴である。その根幹に蹲るのが、馳いわくバークの真の姿「へなちょこ」さである。  あの「へなちょこ」さ。徹底して格好悪く、体裁悪く、それがゆえに決してこの世の至福を味わえないだろうに、忍者のように隠遁し、この世での不在を自らに唱え続ける。そんな無様さが、幼児虐待の過去を背負ったバークの心の怯えで病的なまでの臆病さだ。  偶然ではないかもしれない。馳星周がこの作品で挑んだテーマは幼児虐待である。もちろん現実に今、日本で、起こっていることである。DVと呼ばれ新聞紙面を本格的に賑わすようになった、架空ではない、悲しきリアリズム。  これまでこの世の生き地獄を描くことに専念してきたかに見える馳。ノワール作家として、自らの髪を金髪に染め、本来はやに下がったような目なのに、そいつを真っ黒なサングラスで覆い、ネガティブなマスクに自分を隠し続けている男。まるでバークのように、自らの本当はウェットであるはずの部分をうまいこと消し去り、徹底していきがっている作家。  ぼくが知る限り、彼が最も信頼を分かち合える評論家は、吉野仁であると思う。その吉野氏が自らのWEB日記で、「鬼ごっこ小説」という、非常に楽しいジャンル分けをしている。そのなかで例に出されたのが「海外だとアラン・フォルサム『皇帝の血脈』(新潮文庫)で、国産だと馳星周『楽園の眠り』(徳間書店)」なのだった。  最近の馳作品に関して言えば、ぼくは『生誕祭』のような毛色の変わった小説が大変嬉しかった。しかし、『長恨歌』のような『不夜城』の栄光に頼った作品に関して言えば、楽しめこそすれ、本当の満足感は得られずに終わっていたのだ。そこへゆくと、この『楽園の眠り』は馳が、そもそもの原点である娯楽小説の醍醐味に徹して、緻密なプロットを練り上げた一級の作品であるように思える。  まるでウェストレイクの小説を思わせる逆転、また逆転と、疾走感溢れるストーリー展開でありながら、その乾いた楽しさがとことん味わい切れずに終わるのは、やはり連れ歩く幼児の肌に残されて消えない虐待の痕跡という、あまりにネガティブなテーマのせいだろうか。  それにしても、追跡者と逃亡者が何度もスリリングな場面を演出し合う、本当の意味での鬼ごっこ小説ぶりは、吉野氏が挙げるだけあって、実に素晴らしい。道行きの途上、増えてゆく脇役たちが、さらに独自な動きを加えることで、世界がより複雑化してゆく展開にしても、とてもダイナミズムに溢れ、読み応えがあると思う。  ただ物語の収束の仕方は、やはり馳星周とうブランドに戻ってしまうのだ。ノワール作家というブランドをかなぐり捨てて感涙のラストシーンに持ってゆくことは、この作家ほどの力量ならばいくらでもできただろう。どの小説だって絶対にハッピーエンドでは終わらせない、俺はノワール作家なのだから、と豪語する馳というマスクド・マンは、やはりメディアが生み出した奇怪な怪物であり、ジャンルに縛られる道化師なのだ。  それにしても、やはり、ぼくは理不尽である。馳星周という作家を、作品の方がその枷ゆえに超えられないことが。たまらなく。メディアの呪縛から、逃れ、翔け、と希う。バン(と呼んでいました、俺は)ならば、馳以上の作品がもっとずっと書けるはずなのに、何故か悔しい。  彼が馳星周であることをやめたとき、あるいは馳星周がノワール作家を標榜するのをやめたとき、彼には、呪縛から逃れ、好きな作品を書いて欲しい。例えば、ぼくは、彼の恋愛小説が本当に読みたい。あるいは、日高出身のへなちょこな青年が都会で闘う懸命な小説なども読みたい。  本書の結末を本当の意味で違う作品によって書き改めるときが来る日を、心から待ち望む自分がいる。  作家は、作品を超えて存在してはいけないのだよ。 (2006/02/27)

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