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*トーキョー・バビロン #amazon(4575235474,text,image) 題名:トーキョー・バビロン 作者:馳 星周 発行:双葉社 2006.04.20 初版 価格:\1,700  馳星周が、完全に一皮剥けた。  満足感とともに巻を置きながら、そう確信して憚らなかったのがこの作品。  実のところ、『生誕祭』以前と以後で作風ががらりと変わったと、ぼくは見ていた。それまでの、陰惨で救いのない物語から、むしろ弾けるばかりの生命の貪欲さと、若さの持つ無鉄砲を題材に、よりバイタリティ溢れる世界へと馳ワールドは変わりつつあるように思い、期待を込めていた。  同じノワール的時代環境に展開するストーリーでありながら、そこを生き抜く人間たちの魅力のあるなしによって、その作品への好悪の感情は左右される。『不夜城』は若きヒーローの恋と生存との葛藤を物語の中心に据えたからその作品が生きたのであり、同じヒーローが後年ただの伝説、あるいは乾いた神になってからの物語には、核となるべき心のありかは、作中のどこにも見つからず、読み手としては大いに戸惑わざるを得なかったのだ。  世の中の空疎、無惨を、長短編集で書き続ける馳星周を見ていて、この作家は一体何を追っているのだろうと、常に疑問符ばかりが渦巻いていた。そんな作家が『虚の王』で少し化けた。形(なり)はノワールでも、内容は友情と青春の物語であるように見えたからだ。いわゆる花村萬月などに共通する、決して虚ろではない命の拍動に満ちた暴走の世界である。それは空っぽの暴力とは、すれすれのところで、異なるこちら側の世界に分岐して来る何かのヒントであったのではないか。  その後も足掻きをやめず、馳星周は、何か決め込んだようなスタイルにこだわり続け、酸欠状態のような作品を変わらず作り続けていった。毒素に塗れた短編集『クラッシュ』では、救いのなさ、作品そのもののアクの強さばかりが目だって空しかった。他のキワモノ作家が適度にヒットしている時代だ。だからってキワモノを書けばノワールなんていう安易な公式に甘んじたわけではないだろうが、それなりの枯渇すら感じられてならなかった。  前作の『楽園の眠り』は、ラストさえ無理矢理ノワールに絡め取られなければ、ヒューマニティにさえ溢れた傑作だったと思う。都会という迷宮を疾駆する少女と子供の再生の物語、であるはずだった。題材も今風であり、凝りに凝ったプロットにページを繰る手が止まらなかった。次作への期待だけが、焦がれるほどに残った。  その期待に答えてくれたのが、まさしく本書だ。  物語の主題は単純極まりない。ただの金銭の奪い合いだ。舞台は、もちろん歌舞伎町。都会暮らしに行き詰まった三人の男、一人の女が、現在からの脱出を試みてとある組関係の金融会社を標的に罠を仕掛ける。  一人一人の思惑は、計画のずれや思わぬ偶然の中で、流れ、移ろい、裏切りと化かし合いでねじくれてゆく。中でも一組の男女の恋の行く末がサブストーリーとしてなかなかの読みどころとなっており、こうした作品世界のゆとり、娯楽小説としての含みの多さなど、少し前の馳ワールドでは考えられなかったことだ。  作品を構成する主要登場人物に限らず、癖のある人物を随所に配置して長編造りの巧さが光る。ぼくが読みながらずっと思い描いていた作家は、実はエルモア・レナードだ。バイオレンスに満ちたぎりぎりの化かし合いストーリーでありながら、暗くウェットな場所には落ち込まない。あくまでからっとエネルギッシュなクライム・ストーリーが巧みなかの作家の境地に、馳星周が難なく辿り着いている。  一皮剥けた、どころではない。こうして作品を振り返ってみると、まさに喝采ものじゃないか。このままの勢いで走り続けられることを、ぼくは願ってやまない。真の馳ファンの一人として。 (2006/05/28)
*トーキョー・バビロン #amazon(4575235474,right,image) 題名:トーキョー・バビロン 作者:馳 星周 発行:双葉社 2006.04.20 初版 価格:\1,700  馳星周が、完全に一皮剥けた。  満足感とともに巻を置きながら、そう確信して憚らなかったのがこの作品。  実のところ、『生誕祭』以前と以後で作風ががらりと変わったと、ぼくは見ていた。それまでの、陰惨で救いのない物語から、むしろ弾けるばかりの生命の貪欲さと、若さの持つ無鉄砲を題材に、よりバイタリティ溢れる世界へと馳ワールドは変わりつつあるように思い、期待を込めていた。  同じノワール的時代環境に展開するストーリーでありながら、そこを生き抜く人間たちの魅力のあるなしによって、その作品への好悪の感情は左右される。『不夜城』は若きヒーローの恋と生存との葛藤を物語の中心に据えたからその作品が生きたのであり、同じヒーローが後年ただの伝説、あるいは乾いた神になってからの物語には、核となるべき心のありかは、作中のどこにも見つからず、読み手としては大いに戸惑わざるを得なかったのだ。  世の中の空疎、無惨を、長短編集で書き続ける馳星周を見ていて、この作家は一体何を追っているのだろうと、常に疑問符ばかりが渦巻いていた。そんな作家が『虚の王』で少し化けた。形(なり)はノワールでも、内容は友情と青春の物語であるように見えたからだ。いわゆる花村萬月などに共通する、決して虚ろではない命の拍動に満ちた暴走の世界である。それは空っぽの暴力とは、すれすれのところで、異なるこちら側の世界に分岐して来る何かのヒントであったのではないか。  その後も足掻きをやめず、馳星周は、何か決め込んだようなスタイルにこだわり続け、酸欠状態のような作品を変わらず作り続けていった。毒素に塗れた短編集『クラッシュ』では、救いのなさ、作品そのもののアクの強さばかりが目だって空しかった。他のキワモノ作家が適度にヒットしている時代だ。だからってキワモノを書けばノワールなんていう安易な公式に甘んじたわけではないだろうが、それなりの枯渇すら感じられてならなかった。  前作の『楽園の眠り』は、ラストさえ無理矢理ノワールに絡め取られなければ、ヒューマニティにさえ溢れた傑作だったと思う。都会という迷宮を疾駆する少女と子供の再生の物語、であるはずだった。題材も今風であり、凝りに凝ったプロットにページを繰る手が止まらなかった。次作への期待だけが、焦がれるほどに残った。  その期待に答えてくれたのが、まさしく本書だ。  物語の主題は単純極まりない。ただの金銭の奪い合いだ。舞台は、もちろん歌舞伎町。都会暮らしに行き詰まった三人の男、一人の女が、現在からの脱出を試みてとある組関係の金融会社を標的に罠を仕掛ける。  一人一人の思惑は、計画のずれや思わぬ偶然の中で、流れ、移ろい、裏切りと化かし合いでねじくれてゆく。中でも一組の男女の恋の行く末がサブストーリーとしてなかなかの読みどころとなっており、こうした作品世界のゆとり、娯楽小説としての含みの多さなど、少し前の馳ワールドでは考えられなかったことだ。  作品を構成する主要登場人物に限らず、癖のある人物を随所に配置して長編造りの巧さが光る。ぼくが読みながらずっと思い描いていた作家は、実はエルモア・レナードだ。バイオレンスに満ちたぎりぎりの化かし合いストーリーでありながら、暗くウェットな場所には落ち込まない。あくまでからっとエネルギッシュなクライム・ストーリーが巧みなかの作家の境地に、馳星周が難なく辿り着いている。  一皮剥けた、どころではない。こうして作品を振り返ってみると、まさに喝采ものじゃないか。このままの勢いで走り続けられることを、ぼくは願ってやまない。真の馳ファンの一人として。 (2006/05/28)

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