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*ブルー・ローズ #amazon(4120037665,left,text,image) #amazon(4120037673,text,image) 題名:ブルー・ローズ 上/下 作者:馳 星周 発行:中央公論新社 2006.9.25 初版 価格:各\1,500  サッカーではハーフタイムを挟んで試合展開がまるで別のカードのように一変してしまうことがままある。同じ一つのチームの調子だけを取っても、まるで別のチームになってしまうことが……。わずか15分の休憩がもたらす影響は、サッカーにおいては事実計り知れない。  さて長編小説が上巻と下巻とで全然別の作品の印象になってしまう、という例はあまり経験していない。もちろんどんでん返しや、二転三転という粗筋の妙はあるにしても、まるで別の作家、別の作品になってしまうというほどの激変は、同じ一つの長編小説の中ではあまり類を見ない。  変化することの善悪は別として、本書の上巻と下巻の間には、まるでサッカーの15分間のハーフタイムが挟まれたような印象があるのだ。先が読めない展開という種類のものではない。これはもう認めることはできないというぎりぎりのところまで変化させてしまった印象が強烈だ。それほど問題と感じたのが、本書『ブルー・ローズ』である。  ちなみに上巻は、(ディテール描写にやや問題はあるとしても)書き熟れぬであろう探偵小説への挑戦を、遂にこの作家もやってくれたか、とのハードボイルド好きならではの歓びのうちに幕を開けたのである。それも一人称ハードボイルド文体で語るのは、元警察官である弁護士事務所の調査員といった設定だ。東直己あたりの探偵小説に比べると随分青い印象はあるけれど、それなりにこれまでになかったリアリズムの境地に、ようやく馳星周も到達したかとの期待感とともに、ページを繰るのはそれなりに楽しかった。  然るに……、然るに、である。下巻に至っては、これは何だろうか。急に馳星周が何歳も若返ってしまったのは何故だろうか。せっかくここ数作、大人の小説とも言うべきスタイルを確立させつつあると感じていただけに、私にとっては退行とも思われるこの安易かつ突然の暴力性向は何なのだろう。限りなく繰り返される殺戮シーンの果てに待つ絶望を、一応ノワールという言葉で代替させてしまおうというのであろうか。この作家も編集者も出版社も。もしそうであるなら、ひたすら嘆くぞ、私は。  銃撃が飛び交ってもいい。血と硝煙にまみれてもいい。しかし、この主人公の行動の規範はどこにあるのか。多くの読者がともに感じられる悲愴や決断はどこにあるのか。狂った殺人者を描くのならそれでいい。では、上巻のあの情緒は何だったのか。大人の小説から一気に中身のない破壊衝動だけの小説に落ち込むことに何の価値があるのか? 甘えた環境下で育った人格破綻者が、ただ切れて暴れて回るだけの若者像と大差ない印象で書かれてしまうのはどうしてなのだろうか?  小説家がノワールという言葉を誤読したままに自堕落を繰り返すという悪夢のサイクルに入り込んでしまったのか。あるいは馳星周という名の作家像を、自らシンボル化し過ぎたゆえに、作品を作家のあるべきスタイルに合わせてしまうという自傷行為にも似た創作スタイルが確率されてしまったのか? あるいは読者が、版元が、商品価値としての破壊的結末を本当に求めた結果だというのか? 作家はこれにプロとしてただ応えたということなのだろうか?  派手なドンパチのさなか、癖のある人物が錯綜して絡まり合ってくれればそれでいい、退屈を厭うそんな読者だけを引き連れて、このままどこまでも行きたいと作家が思うのであれば、それはそれで仕方ないことかもしれない。けれどせっかくの才能のきらめきを追跡したい読者にとっては、それはとても悲しいことのように思われる。先人たちの刻んだエンターテインメントの歴史を、正しく困難な方向で継承することが可能だと思う作家であるだけに、ちと悔しい方向に向かってしまったという、私的には極度に不足感の残る作品となった。 (2007/01/14)
*ブルー・ローズ #amazon(4120037665,left,image) #amazon(4120037673,image) 題名:ブルー・ローズ 上/下 作者:馳 星周 発行:中央公論新社 2006.9.25 初版 価格:各\1,500  サッカーではハーフタイムを挟んで試合展開がまるで別のカードのように一変してしまうことがままある。同じ一つのチームの調子だけを取っても、まるで別のチームになってしまうことが……。わずか15分の休憩がもたらす影響は、サッカーにおいては事実計り知れない。  さて長編小説が上巻と下巻とで全然別の作品の印象になってしまう、という例はあまり経験していない。もちろんどんでん返しや、二転三転という粗筋の妙はあるにしても、まるで別の作家、別の作品になってしまうというほどの激変は、同じ一つの長編小説の中ではあまり類を見ない。  変化することの善悪は別として、本書の上巻と下巻の間には、まるでサッカーの15分間のハーフタイムが挟まれたような印象があるのだ。先が読めない展開という種類のものではない。これはもう認めることはできないというぎりぎりのところまで変化させてしまった印象が強烈だ。それほど問題と感じたのが、本書『ブルー・ローズ』である。  ちなみに上巻は、(ディテール描写にやや問題はあるとしても)書き熟れぬであろう探偵小説への挑戦を、遂にこの作家もやってくれたか、とのハードボイルド好きならではの歓びのうちに幕を開けたのである。それも一人称ハードボイルド文体で語るのは、元警察官である弁護士事務所の調査員といった設定だ。東直己あたりの探偵小説に比べると随分青い印象はあるけれど、それなりにこれまでになかったリアリズムの境地に、ようやく馳星周も到達したかとの期待感とともに、ページを繰るのはそれなりに楽しかった。  然るに……、然るに、である。下巻に至っては、これは何だろうか。急に馳星周が何歳も若返ってしまったのは何故だろうか。せっかくここ数作、大人の小説とも言うべきスタイルを確立させつつあると感じていただけに、私にとっては退行とも思われるこの安易かつ突然の暴力性向は何なのだろう。限りなく繰り返される殺戮シーンの果てに待つ絶望を、一応ノワールという言葉で代替させてしまおうというのであろうか。この作家も編集者も出版社も。もしそうであるなら、ひたすら嘆くぞ、私は。  銃撃が飛び交ってもいい。血と硝煙にまみれてもいい。しかし、この主人公の行動の規範はどこにあるのか。多くの読者がともに感じられる悲愴や決断はどこにあるのか。狂った殺人者を描くのならそれでいい。では、上巻のあの情緒は何だったのか。大人の小説から一気に中身のない破壊衝動だけの小説に落ち込むことに何の価値があるのか? 甘えた環境下で育った人格破綻者が、ただ切れて暴れて回るだけの若者像と大差ない印象で書かれてしまうのはどうしてなのだろうか?  小説家がノワールという言葉を誤読したままに自堕落を繰り返すという悪夢のサイクルに入り込んでしまったのか。あるいは馳星周という名の作家像を、自らシンボル化し過ぎたゆえに、作品を作家のあるべきスタイルに合わせてしまうという自傷行為にも似た創作スタイルが確率されてしまったのか? あるいは読者が、版元が、商品価値としての破壊的結末を本当に求めた結果だというのか? 作家はこれにプロとしてただ応えたということなのだろうか?  派手なドンパチのさなか、癖のある人物が錯綜して絡まり合ってくれればそれでいい、退屈を厭うそんな読者だけを引き連れて、このままどこまでも行きたいと作家が思うのであれば、それはそれで仕方ないことかもしれない。けれどせっかくの才能のきらめきを追跡したい読者にとっては、それはとても悲しいことのように思われる。先人たちの刻んだエンターテインメントの歴史を、正しく困難な方向で継承することが可能だと思う作家であるだけに、ちと悔しい方向に向かってしまったという、私的には極度に不足感の残る作品となった。 (2007/01/14)

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