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*二流小説家 #amazon(right,4151795014) 題名:二流小説家 原題:The Serialist (2010) 作者:デイヴィッド・ゴードン David Gordon 訳者:青木千鶴 発行:ハヤカワ文庫HM 2013.1.25 初刷 2011.03 初版 価格:\1,000  なぜこの小説がこれほどの栄誉に輝いているのかを考えることの方に集中させられてしまった、というのが正直なところだ。ある権威の高みにまで到達する作品の品位のようなものが欠けているように思えたのは、欧米の文化というものに対するぼくの尺度が勝手に高貴なる側に傾いていたからなのかもしれない。世にスラップスティックなるものが存在し、ブラックユーモアなるものがヴェトナム戦争の時代に世界中を席巻したことを考えれば、何もかしこまった作品ばかりがミステリの王道をゆくわけではないと承知していながら、自分の中にある頑固な硬さが露見させられてしまった思いのあるいささか渋い味覚のようなものが、この本一冊(もしくはコイツに対するの世間の評価)によって少なからず生じたものである。  さほど、最初の感触としてこの本は軽く見えた。軽薄で安易で饒舌でトリッキーで(この部分はまあこの作家のおそらく一番の魅力なのだが)、けれん味たっぷりで、日本の読書界でウケる要素がたっぷりまぶされ、練り込まれているものらしいこの一冊が。  この本がミステリだという仮定に基づかなければ、ぼくはもしかしたらこの小説がミステリだったかどうかという自問に対し答えを持ち得なかったかもしれない。もちろんハヤカワ・ポケミスでお目見えしているにせよ、読んで、まずは読んで、100ページ読んだ時点でも何らかの事件に遭遇することなく、主人公の独白に、主人公の小説感に、主人公の表現のけれんに付き合わされる小説なんである。いささかオタッキーに過ぎ、トリビアに過ぎ、少し引きたくなるような主人公を見ていると、どのジャンルの世界に自分が足を踏み込んでしまったのかが定かではなくなる。確実に足元がふらつくのである。  そうした多くの贅肉に囲まれた中で、脂肪を削ぎ落とすように小説のなかの時間が過ぎ行き、事件の骨組みが緩やかにではあるが、次第に明らかに見えてくる。やっと視野に入ってくるというか。それほどに密林のような濃い藪を掻き分けないと、開いた風景に巡り合うことができないおぞましさ、がこの小説には確実にある。  さてそういう忍耐と努力と脇道に入って袋小路であることを認識し、改めて本筋に戻るという恐るべき遠回りな作業の末に、ミステリの骨組みが登場し、そこで改めてこの主人公と読者とを騙していた獄中の依頼人(死刑囚)の狙いがわかる。でも巻の途中でこの物語がなぜ終わってしまうのだろうか? 真実は明かされた。謎は解けた。なのに、指をはさんだその場所は巻末ではなく本の真ん中を過ぎたあたりなのだ。この先に何が残されているのか、またあの濃密な皮下脂肪的贅肉みたいなエピソードの藪こぎという苦行が読者に課せられているのだろうか?  どこよりも早く日本で映画化されてしまう海外ミステリというのも実に珍しいのだが、その広告が載せられた文庫版コシマキには、「観るもの全てを欺く驚愕のラスト!!」とある。巻半ばにして結末を知った気分であるぼくはこれに期待した。なるほどさらに紛れ込んだ真実の切れ端のようなものがあった。しかし、これらを映画がどう表現してゆくのかわからない。女子高生でありマネージャーであるクレアと、被害者の双子の妹でストリッパーのダニエラとのトリオという構成も人を食っている。  優れた作品というのは、人を食っている、という。そのくらいあざとくないと芸術としては駄目なのかもしれない。だからと言ってこの小説に対するぼくの思いが整理できたわけでもない。ミステリとしての謎解き部分は面白いかもしれないが、とりわけすごいというほどでもなかったのにはがっかりした。ただ主人公が小説を職業として得意分野とし、娯楽小説のどのジャンルにも手を出さねば食べてゆけない環境その他、現実の作家像のリアルな面がおこがましくも覗いているというのなら、そのふてぶてしさに音を立てず小さく喝采を送ってあげるのはやむなき、とせざるを得ないような気がしたのは、確かな事実であるとだけ記してペンを置こう。 (2013.08.14)

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