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*駐在刑事 題名:駐在刑事 作者:笹本稜平 発行:講談社 2006.07.27 初版 価格:\1,700  日本の文芸誌を心から嘆きたくなるときがある。  大衆総合誌の場合、その一部で連載される長編小説は一冊にまとまったときにとても高く評価されるものが散見される。有名どころの作家が、シリーズものなどを雑誌連載始めると、出来上がりが待ち遠しくてうずうずする。とは言っても単行本にまとまるまで私は読まないけれど。その理由は、小説を切れ切れに読むなんて芸当はできないからだ。  さて大衆総合雑誌に比べて文芸誌のはどうかというと、有名無名実力の多寡に関わらずとにかく四方八方から短編作品を集めて作っているものがとにかく多いのだ。もちろん雑誌の肝である長編連載はそれぞれに抑えてはいるのだが、短編を中心とした読み切りを売り物にする「別冊」「増刊」などがやたらと目につく。  これらは作家たちにとっては、長編作品の間隙を埋める収入として意味のある大変重要な仕事であるのかもしれない。売れ筋作家の本はどんどん商品化したいという気持ちはわかる。だが、長編とは別枠で短編を短期締め切り設定でがんがん書いてもらい、それをまとめて単行本、文庫本という安易な文化の流通風土を作り出したことに罪はないのだろうか?作家たちの創作労力の浪費という概念は、文化を司る業界としてこれからも持たなくて宜しいものなのだろうか。  こういう流通システムが自分の作風に似合うんだという作家も確かにいると思う。さらさらと、どんどん似たような物語を量産して映画化されては悦に入る職人的なツボ心得作家(浅田次郎という私が念頭に置いた例を出しちまおうか)はそんな流通でも使い切るに違いない。  しかし笹本稜平のように本来ボリュームやスケールを売りにしてきた作家が、いきなり短編小説というのはどうだろうか。結果としての本書を手にとってみると、やはりぼくはひたすら空しい。作家の困惑げな表情が眼に見えるようだ。短編はどうも苦手だ、苦手だと、悲鳴を挙げている様さえ何となく眼に浮かぶ。  長編は描写しつくすことができるが、短編はこれでもかとばかりに描写を切り捨ててゆく文化だ。よってたつ土台が違う。作法が違う。工程が違う。作家によってはどちらかしか得意でないという人がいるはずだ。いや、大半の作家はどちらかの専任みたいなものだ。だからこそオットー・ペンズラーのアンソロジーなどには、世界の有名作家に肩を並べる短編専門作家が顔を連ねているのだ。和洋を問わず、言えることなのだ。明らかなことなのだ  本短編集であるが、まず連作小説としての設定は、まるで佐々木譲の『制服捜査』の焼き直しである。本省から田舎の駐在に異動させられた主人公の新任地での活躍を描くものなのだから。  しかし、その内実たるや佐々木譲の連作短編集『制服捜査』とは天と地の開きがあるように私には映る。佐々木譲は北海道夕張市の生まれ、現在は中標津在住という典型的地方作家として、北海道の置かれた経済環境を小説中に軸として描いており、『制服捜査』は、ともかく生活感のあるどっしりした作品集に仕上がっている。  一方で笹本稜平は登山という趣味を生かしたかったのか、そうであれば最初から長野県警外勤課か何かに主人公を設定すればよかったのに、作家の生まれ育ちと何ら無縁でもあり、その土地への愛着を特に感じるでもない奥多摩という場所を選定し、その麓でただの無聊をかこつ警察官のノン・モチーフな日常の上に、ありきたりなミステリーを作ってゆくのだから、やはり無理があるとしか思えない。  本書で、私がきちんと受け止めることができたのは『秋のトリコロール』の一篇のみで、これは皮肉なことに奥多摩という任地を離れ、秋の北鎌尾根を山の先輩に案内されて登るシーンだ。私自身ゴールデンウィークの北鎌尾根をワン・ビバークで登攀しているせいか、その記憶を辿る山行記として面白かった。  他に、犬を扱った『茶色い放物線』に少しほろりときたが、主人公を初め、人間の方では、ついぞ感動しなかったところがやはり皮肉だ。ちなみに作中に出てくる奥多摩の山々は私も何度となく登っているが、作中の高感度はゼロに近かった。奥多摩が嫌いなわけではなく、むしろ愛した山だっただけに不思議である。  この作家は、長編冒険小説作家、あるいは山岳冒険小説作家としては、現在のところ日本代表クラスの腕前を揮っているとぼくは思う。だけど、どこか軸の部分で面白さの核のようなものを掴み切れていない印象がいつもあって、それは何故なのかと、永いこと考えてきたのだが、その答がこの短編集にあるように感じられた。  道具立てを整えても、よしんば整えなくても、物語の核でどこまで読者を揺さぶることができるか。小説の本質はきっとそんなところにあるのかもしれなく、この作家は重心の置き位置をちょっと誤っているのだと思う。佐々木譲と比べれば、相当明確な違いが見えてくると単純に思うのだが。 (2006/12/17)
*駐在刑事 #amazon(4062135043,text,image) 題名:駐在刑事 作者:笹本稜平 発行:講談社 2006.07.27 初版 価格:\1,700  日本の文芸誌を心から嘆きたくなるときがある。  大衆総合誌の場合、その一部で連載される長編小説は一冊にまとまったときにとても高く評価されるものが散見される。有名どころの作家が、シリーズものなどを雑誌連載始めると、出来上がりが待ち遠しくてうずうずする。とは言っても単行本にまとまるまで私は読まないけれど。その理由は、小説を切れ切れに読むなんて芸当はできないからだ。  さて大衆総合雑誌に比べて文芸誌のはどうかというと、有名無名実力の多寡に関わらずとにかく四方八方から短編作品を集めて作っているものがとにかく多いのだ。もちろん雑誌の肝である長編連載はそれぞれに抑えてはいるのだが、短編を中心とした読み切りを売り物にする「別冊」「増刊」などがやたらと目につく。  これらは作家たちにとっては、長編作品の間隙を埋める収入として意味のある大変重要な仕事であるのかもしれない。売れ筋作家の本はどんどん商品化したいという気持ちはわかる。だが、長編とは別枠で短編を短期締め切り設定でがんがん書いてもらい、それをまとめて単行本、文庫本という安易な文化の流通風土を作り出したことに罪はないのだろうか?作家たちの創作労力の浪費という概念は、文化を司る業界としてこれからも持たなくて宜しいものなのだろうか。  こういう流通システムが自分の作風に似合うんだという作家も確かにいると思う。さらさらと、どんどん似たような物語を量産して映画化されては悦に入る職人的なツボ心得作家(浅田次郎という私が念頭に置いた例を出しちまおうか)はそんな流通でも使い切るに違いない。  しかし笹本稜平のように本来ボリュームやスケールを売りにしてきた作家が、いきなり短編小説というのはどうだろうか。結果としての本書を手にとってみると、やはりぼくはひたすら空しい。作家の困惑げな表情が眼に見えるようだ。短編はどうも苦手だ、苦手だと、悲鳴を挙げている様さえ何となく眼に浮かぶ。  長編は描写しつくすことができるが、短編はこれでもかとばかりに描写を切り捨ててゆく文化だ。よってたつ土台が違う。作法が違う。工程が違う。作家によってはどちらかしか得意でないという人がいるはずだ。いや、大半の作家はどちらかの専任みたいなものだ。だからこそオットー・ペンズラーのアンソロジーなどには、世界の有名作家に肩を並べる短編専門作家が顔を連ねているのだ。和洋を問わず、言えることなのだ。明らかなことなのだ  本短編集であるが、まず連作小説としての設定は、まるで佐々木譲の『制服捜査』の焼き直しである。本省から田舎の駐在に異動させられた主人公の新任地での活躍を描くものなのだから。  しかし、その内実たるや佐々木譲の連作短編集『制服捜査』とは天と地の開きがあるように私には映る。佐々木譲は北海道夕張市の生まれ、現在は中標津在住という典型的地方作家として、北海道の置かれた経済環境を小説中に軸として描いており、『制服捜査』は、ともかく生活感のあるどっしりした作品集に仕上がっている。  一方で笹本稜平は登山という趣味を生かしたかったのか、そうであれば最初から長野県警外勤課か何かに主人公を設定すればよかったのに、作家の生まれ育ちと何ら無縁でもあり、その土地への愛着を特に感じるでもない奥多摩という場所を選定し、その麓でただの無聊をかこつ警察官のノン・モチーフな日常の上に、ありきたりなミステリーを作ってゆくのだから、やはり無理があるとしか思えない。  本書で、私がきちんと受け止めることができたのは『秋のトリコロール』の一篇のみで、これは皮肉なことに奥多摩という任地を離れ、秋の北鎌尾根を山の先輩に案内されて登るシーンだ。私自身ゴールデンウィークの北鎌尾根をワン・ビバークで登攀しているせいか、その記憶を辿る山行記として面白かった。  他に、犬を扱った『茶色い放物線』に少しほろりときたが、主人公を初め、人間の方では、ついぞ感動しなかったところがやはり皮肉だ。ちなみに作中に出てくる奥多摩の山々は私も何度となく登っているが、作中の高感度はゼロに近かった。奥多摩が嫌いなわけではなく、むしろ愛した山だっただけに不思議である。  この作家は、長編冒険小説作家、あるいは山岳冒険小説作家としては、現在のところ日本代表クラスの腕前を揮っているとぼくは思う。だけど、どこか軸の部分で面白さの核のようなものを掴み切れていない印象がいつもあって、それは何故なのかと、永いこと考えてきたのだが、その答がこの短編集にあるように感じられた。  道具立てを整えても、よしんば整えなくても、物語の核でどこまで読者を揺さぶることができるか。小説の本質はきっとそんなところにあるのかもしれなく、この作家は重心の置き位置をちょっと誤っているのだと思う。佐々木譲と比べれば、相当明確な違いが見えてくると単純に思うのだが。 (2006/12/17)

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