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*太陽を曳く馬 #amazon(4103784067)#amazon(4103784075) 題名:太陽を曳く馬 上/下 作者:高村 薫 発行:新潮社 2009.07.25 初版 価格:各\1,800  前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。  そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。  リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。  そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。  本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。  メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。  でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。  僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。  夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。  合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか? (2009/10/11)
*太陽を曳く馬 #amazon(left,4103784067)#amazon(4103784075) 題名:太陽を曳く馬 上/下 作者:高村 薫 発行:新潮社 2009.07.25 初版 価格:各\1,800  前作『晴子情歌』『新リア王』に続く福澤家サーガとでも呼ぶべき昭和史の完結編は思いも寄らぬ形で登場した。前作のラストシーンは、福澤榮のもとに合田と名乗る刑事から電話がかかるところで終ってゆく。三部作の終章は、高村小説のシリーズ主人公である合田が、この物語を引き受けてゆく。  そのことはとても妙だ。合田シリーズそのものは、ミステリという純然たる娯楽小説である。一方で福沢家サーガは誰がどう読んでも娯楽小説とは言い難く、高村という作家が純文学のリーグに敢えてチャレンジしてとても意図的に内容を娯楽小説から遠ざけようとして書き進めてきた別の世界であるように思われる。  リーグの違うジャンルを跨ぐというあまり犯されることのない暗黙のルールという壁を、高村はこともなく崩し去る。合田はこんな人間であったのか、というところにまで迷わせられるほどに、一介の刑事が純文学的思索者になり切ってしまう。  そもそも純文学に片足を突っ込みながら娯楽小説を書いてきた高村は、『マークスの山』で純然たるミステリを書いたかと思うと、『照柿』ではドストエフスキーを意図したかのような純文学殺人小説に近いそれを書いてしまう。合田は、文藝ジャンルの彼岸を行き来する存在であるらしい。まさに高村の影武者のような。  本書では冒頭に三通りに敷かれたレールが紹介される。福澤彰之が開いた<永劫寺サンガ>という禅の会で行われる夜座から発作により脱け出した癲癇もちの青年がトラックに撥ねられ死亡した事件が一つ。福澤彰之の絵描きの息子が発作を起こし同居の女性と隣家の青年を玄翁で殴り殺した事件が一つ。さらに世界貿易センタービルに勤めていた合田の離縁した妻がテロに巻き込まれて死んだという個人的事件が一つ。  メイン・ストーリーは永劫寺サンガの事故を追うという、非常に地味な展開で、その死んだ青年がオウムの渋谷に出入りしていた形跡があるために、発作を起こして死んだ理由、あるいは鍵の掛けられていた門が誰により開放されていたのか、等の推理小説にもならないくらいに小さな事件を合田は追いかける。現に警察本部の上長からは他に多くの事件があるのに何をこだわっているのかと最後の最後まで訝しがられる。  でも合田の行動はひたすら福沢家サーガを追いかけ、永劫寺サンガに深入りしてゆき、事件は恐ろしく脳内分泌的な抽象で語られる。宗教論議に加え、<私>と<私>を否定する何ものか、という高村お得意の人間の多重性、不安定性といったところに非常に文理両サイドからの論理で迫る。この作品のどこにも娯楽小説の影はもはやない。  僧侶たちの個性的な宗教観に加え、合田のほうが抱えている、秋道という殺人者の追憶、さらに世界貿易センタービルから降り落ちていった人間たちのニュース映像がもたらす、失墜のインパクト。そうした幻想と知覚と論理とが時間を越え、地上を飛翔し、脳裏を刺激し合う電機反応などとともに、語られ得ないものの表現の極北へとペンが向う。  夢魔との長い日々を過ごした感覚で本を閉じた。昭和を語るのみならず、最後には存在を語ろうとし、神仏を語ろうとし、人間の意識を、細胞が渡す遺伝子の内容物を語ろうとし、それのどれもが虚無との対決のように思える一冊であった。  合田は無事、日頃の実在的な警察という職務のこちら岸へと帰還することができるのだろうか? (2009/10/11)

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