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*ハリウッド警察25時 #amazon(4150018030,right,image) 題名:ハリウッド警察25時 原題:Cases (1999) 作者:ジョゼフ・ウォンボー Joseph Wambaugh 訳者:小林宏明 発行:ハヤカワ・ミステリ 2007.08.10 初版 価格:\1,500  この作家をこれまで読んでいなかったことを激しく後悔! マクベインを初め警察小説に眼がない、と豪語していた自分が恥ずかしい。警察小説という小さなジャンルに、よもやこんな巨匠がいたとは。  いや、全然知らなかったというわけではないんだ。冒険小説&ハードボイルドの書評の中ではたまに鉄人読者のような方からの渋い感想が上がっていた。でも書評は単発で、読んでいるという人は、他の人気作家に比べ、圧倒的に少なかったろうと思う。2007年『このミステリがすごい!』では、久々の邦訳というばかりではなく、この作品が凄まじく充実しているせいか、15位に輝いている。最近の『このミス』は、アンケート回答者の好みが本格に偏っているせいか、1から3位くらいに入る作品は、派手でトリッキーなものが多く、かえって10から15位くらいの作品の方がずっと大人の作品であることが多いと思う。  この作家は『センチュリアン』で有名になった。その『センチュリアン』は1972年映画化され、TV放映されたときにこれを見たぼくは、実は痛く感銘を受けている。当時のぼくはアメリカン・ニュー・シネマに夢中であったし、時代のニュー・スターであったアル・パシーノの『セルピコ』あたりから、警察映画というものに目覚めていたから、この『センチュリアン』はエリオット・グールド、ロバート・ブレイクの『破壊』、ウォルター・マッソー主演のマルティン・ベック作品『マシンガン・パニック ~笑う警官』などとともに、当時の記憶から絶対に消えない映画となったのだ。  本書はその『センチュリアン』で描かれた警察、街の活写小説の、21世紀版というべきものであるそうだ。もちろん作者はその間さまざまなバリエーションで作品を描いている。でも基本形に戻って「今」を描いたのが本書というわけで、これは確かに警察小説ファンであれば絶対に唸らざるを得ないエポック・メイキングな金字塔と言うべき作品なのである。  本書は警察官たちの群像小説である。主人公は、警官たちであり、同時に現代という時代、人種の混沌のさなかにあるハリウッドという街ですらある。  R・D・ウィングフィールドのフロスト・シリーズは一冊が長大で大抵が一日の事件であるが、何もかもが一つの警察署を一編に襲い掛かってくるみたいにやってくる話である。あちらはどちらかと言えば下品な刑事を主役にしたワンマン・コメディだが、こちらの方は、むしろTVドラマで言えば『サード・ウォッチ』のように、個性ある面々がそれぞれに物語を抱え、それら一つ一つの物語が重奏してオーケストラのように鳴り渡るところで、ファンファーレがラスト・コールを響かせ、その余韻が読後に心膜を奮わせる。  警察官のパトロールが二人一組の組み合わせの妙で動いていることがまずはドラマを作る。犯罪者たちはまるでエルモア・レナードの作中人物たちのように、互いに騙し合い生き残りを賭ける。虚無と安恩のなかで生きてゆくネジのひん曲がったホームレスたちの表情までもが豊かで、そうした混沌の個人の波を、ハリウッド警察署という秩序の塔が掬い上げる。  警察署の象徴である老警官がいる。ビーチこそすべてという若き警官たちがいる。映画の都であるハリウッドの申し子のような警官がいる。男以上に自らの性の復権を賭けて戦う女性警官がいる。彼ら、彼女らが、秩序の塔を綯う糸屑たちである。  作者の目はときにユーモラスに、時に皮肉交じりに、時に情け容赦なく残酷に、そして時に素晴らしく優しく、この街を薙いで行く。大作であり、力作である。一つ一つの何も関係のないようなエピソードが、次第にジャブのように効いて行く。最後のストレートを喰らう頃にはすっかり作者の手腕に参っている。値を上げている。とても敵わない。そんな作品に出会える歓びをこそ、読書では味わうべきなんだ。  ぞっこん惚れてしまった一冊である。 (2007/11/25)
*ハリウッド警察25時 #amazon(4150018030,right,image) 題名:ハリウッド警察25時 原題:Cases (1999) 作者:ジョゼフ・ウォンボー Joseph Wambaugh 訳者:小林宏明 発行:ハヤカワ・ミステリ 2007.08.10 初版 価格:\1,500  この作家をこれまで読んでいなかったことを激しく後悔! マクベインを初め警察小説に眼がない、と豪語していた自分が恥ずかしい。警察小説という小さなジャンルに、よもやこんな巨匠がいたとは。  いや、全然知らなかったというわけではないんだ。冒険小説&ハードボイルドの書評の中ではたまに鉄人読者のような方からの渋い感想が上がっていた。でも書評は単発で、読んでいるという人は、他の人気作家に比べ、圧倒的に少なかったろうと思う。2007年『このミステリがすごい!』では、久々の邦訳というばかりではなく、この作品が凄まじく充実しているせいか、15位に輝いている。最近の『このミス』は、アンケート回答者の好みが本格に偏っているせいか、1から3位くらいに入る作品は、派手でトリッキーなものが多く、かえって10から15位くらいの作品の方がずっと大人の作品であることが多いと思う。  この作家は『センチュリアン』で有名になった。その『センチュリアン』は1972年映画化され、TV放映されたときにこれを見たぼくは、実は痛く感銘を受けている。当時のぼくはアメリカン・ニュー・シネマに夢中であったし、時代のニュー・スターであったアル・パシーノの『セルピコ』あたりから、警察映画というものに目覚めていたから、この『センチュリアン』はエリオット・グールド、ロバート・ブレイクの『破壊』、ウォルター・マッソー主演のマルティン・ベック作品『マシンガン・パニック ~笑う警官』などとともに、当時の記憶から絶対に消えない映画となったのだ。  本書はその『センチュリアン』で描かれた警察、街の活写小説の、21世紀版というべきものであるそうだ。もちろん作者はその間さまざまなバリエーションで作品を描いている。でも基本形に戻って「今」を描いたのが本書というわけで、これは確かに警察小説ファンであれば絶対に唸らざるを得ないエポック・メイキングな金字塔と言うべき作品なのである。  本書は警察官たちの群像小説である。主人公は、警官たちであり、同時に現代という時代、人種の混沌のさなかにあるハリウッドという街ですらある。  R・D・ウィングフィールドのフロスト・シリーズは一冊が長大で大抵が一日の事件であるが、何もかもが一つの警察署を一編に襲い掛かってくるみたいにやってくる話である。あちらはどちらかと言えば下品な刑事を主役にしたワンマン・コメディだが、こちらの方は、むしろTVドラマで言えば『サード・ウォッチ』のように、個性ある面々がそれぞれに物語を抱え、それら一つ一つの物語が重奏してオーケストラのように鳴り渡るところで、ファンファーレがラスト・コールを響かせ、その余韻が読後に心膜を奮わせる。  警察官のパトロールが二人一組の組み合わせの妙で動いていることがまずはドラマを作る。犯罪者たちはまるでエルモア・レナードの作中人物たちのように、互いに騙し合い生き残りを賭ける。虚無と安恩のなかで生きてゆくネジのひん曲がったホームレスたちの表情までもが豊かで、そうした混沌の個人の波を、ハリウッド警察署という秩序の塔が掬い上げる。  警察署の象徴である老警官がいる。ビーチこそすべてという若き警官たちがいる。映画の都であるハリウッドの申し子のような警官がいる。男以上に自らの性の復権を賭けて戦う女性警官がいる。彼ら、彼女らが、秩序の塔を綯う糸屑たちである。  作者の目はときにユーモラスに、時に皮肉交じりに、時に情け容赦なく残酷に、そして時に素晴らしく優しく、この街を薙いで行く。大作であり、力作である。一つ一つの何も関係のないようなエピソードが、次第にジャブのように効いて行く。最後のストレートを喰らう頃にはすっかり作者の手腕に参っている。値を上げている。とても敵わない。そんな作品に出会える歓びをこそ、読書では味わうべきなんだ。  ぞっこん惚れてしまった一冊である。 (2007/11/25)

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