「炎に消えた名画」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

炎に消えた名画」(2007/07/15 (日) 00:34:40) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*炎に消えた名画(アート) #amazon(4594047734,right,image) 題名:炎に消えた名画 原題:Baby Cat-Face (1995) 作者:Barry Gifford 訳者:真先義博 発行:文春文庫 2001.4.10 初版 価格:\590  ウィルフォードがまだ売れていなかった時代、マイアミポリス・シリーズが生まれてもいなかった時代、彼は単なるパルプ作家であった。もちろん、ノワールの作家はたいていそうなのだが。金がなく、ハングリーで、その代わりいろいろな実務的経験を積んでいたりはする。適法であるなしに関わらず。そんなハングリーな時代に、ハングリーな美術評論家を主人公にして、小難しい美術論の薀蓄から始まる異端の小説が本書である。  もちろん原書はパルプであり、大衆娯楽小説であるはずなのだが、ページを繰るたびに出てくるのは美術評論誌のような変てこな一人称。敢えて評論家ゆえに駆使する言語表現が異常に凝っており、ゆえにこの小説の本来の存在理由が読者にはわかりにくくなっている。しかし本書はあくまで安手のクライムノベル、ノワールである。  登場人物は美術評論家としての知名度を高めることばかりを計算するコロンビア混血の貪欲な主人公。もちろん美術への造詣は深いし、美術評論そのものが怪物化してゆく世界の異常さに関する説明の下りも、なんとなく皮肉な論調に混じって、嘘と真実が綯い交ぜにされている感じがしないでもない。要するに一人称小説のくせに如何にも胡散臭い。  主人公の長い独白と抽象論を抜けば、シンプルな犯罪小説であるのだが、そこがウィルフォードの面目躍如たるところ。それらの薀蓄、美術論の中から湧き出てきたのが、これまた胡散臭い大家でるドゥビエリュー。火事で作品を焼失し、その後も作品は一つも人の目に触れていないが、著名な虚無的シュールレアリスムの大家であるという、およそ考えられない存在である。胡散臭いことこの上ない。  他にも美術界、美術評論界、コレクター、絵画商、等々、胡散臭い人物ばかりで成り立っているように見えるのは、主人公を取り巻く環境が主人公というコンプレックスの色眼鏡を通して映る姿であるのか、美術界という現実そのものであるのか、美術に詳しくないぼくには不明である。しかし、主人公を愛する田舎出の女教師ベレニスだけがストレートでまともな人間であり、彼女の異質がこの物語に楔を打ち込んでいるようにも見える。  下種な欲望まみれの主人公が、一人称という粉飾の影に身を隠す様が常に可笑しいし、最後の最後まで、意志の強さと潔癖ぶり、良心のありようを読者に訴えて終わってゆくという皮肉も含めて、ウィルフォードの二重三重の仕掛けまで不可読みできるところが、一見シンプルに見えるこの犯罪小説の味わいどころだろう。  一人称とハードボイルド、一人称とノワールというのは、切っても切れないくらいに相性のよい相手である。そのあたりを憎いほどに巧く駆使した、初期ウィルフォードの、いささか畸形的な作品と言えるだろう。 (2004.10.31)
*炎に消えた名画(アート) #amazon(4594047734,right,image) 題名:炎に消えた名画 原題:Baby Cat-Face (1995) 作者:Barry Gifford 訳者:真先義博 発行:文春文庫 2001.4.10 初版 価格:\590  ウィルフォードがまだ売れていなかった時代、マイアミポリス・シリーズが生まれてもいなかった時代、彼は単なるパルプ作家であった。もちろん、ノワールの作家はたいていそうなのだが。金がなく、ハングリーで、その代わりいろいろな実務的経験を積んでいたりはする。適法であるなしに関わらず。そんなハングリーな時代に、ハングリーな美術評論家を主人公にして、小難しい美術論の薀蓄から始まる異端の小説が本書である。  もちろん原書はパルプであり、大衆娯楽小説であるはずなのだが、ページを繰るたびに出てくるのは美術評論誌のような変てこな一人称。敢えて評論家ゆえに駆使する言語表現が異常に凝っており、ゆえにこの小説の本来の存在理由が読者にはわかりにくくなっている。しかし本書はあくまで安手のクライムノベル、ノワールである。  登場人物は美術評論家としての知名度を高めることばかりを計算するコロンビア混血の貪欲な主人公。もちろん美術への造詣は深いし、美術評論そのものが怪物化してゆく世界の異常さに関する説明の下りも、なんとなく皮肉な論調に混じって、嘘と真実が綯い交ぜにされている感じがしないでもない。要するに一人称小説のくせに如何にも胡散臭い。  主人公の長い独白と抽象論を抜けば、シンプルな犯罪小説であるのだが、そこがウィルフォードの面目躍如たるところ。それらの薀蓄、美術論の中から湧き出てきたのが、これまた胡散臭い大家でるドゥビエリュー。火事で作品を焼失し、その後も作品は一つも人の目に触れていないが、著名な虚無的シュールレアリスムの大家であるという、およそ考えられない存在である。胡散臭いことこの上ない。  他にも美術界、美術評論界、コレクター、絵画商、等々、胡散臭い人物ばかりで成り立っているように見えるのは、主人公を取り巻く環境が主人公というコンプレックスの色眼鏡を通して映る姿であるのか、美術界という現実そのものであるのか、美術に詳しくないぼくには不明である。しかし、主人公を愛する田舎出の女教師ベレニスだけがストレートでまともな人間であり、彼女の異質がこの物語に楔を打ち込んでいるようにも見える。  下種な欲望まみれの主人公が、一人称という粉飾の影に身を隠す様が常に可笑しいし、最後の最後まで、意志の強さと潔癖ぶり、良心のありようを読者に訴えて終わってゆくという皮肉も含めて、ウィルフォードの二重三重の仕掛けまで不可読みできるところが、一見シンプルに見えるこの犯罪小説の味わいどころだろう。  一人称とハードボイルド、一人称とノワールというのは、切っても切れないくらいに相性のよい相手である。そのあたりを憎いほどに巧く駆使した、初期ウィルフォードの、いささか畸形的な作品と言えるだろう。 (2004.10.31)

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: