煙で描いた肖像画




原題:Portrait In Smoke (1950)
作者:ビル・S・バリンジャー Bill S. Ballinger
訳者:矢口 誠
発行:創元推理文庫 2002.07.12 初版
価格:\680

 『煙の中の肖像』(仁賀克雄訳・小学館2002年6月初版・\1700)と同じ作品。一ヶ月の差はあれどニ社からほぼ同時期に訳出されるというのも珍しい。しかも半世紀にも渡って邦訳されることのなかった古典ミステリーが。

『このミス』の票もニ作に分かれ若干不利になっている。ぼくの選んだ版は、文庫で廉価であるにも関わらず、「バリンジャー自作を語る」および、友人である作家フレッド・ハリディの解説「バリンジャーの三代名作」が、付録としてついており、お得感がある。訳の善し悪しは、比較していない。

 太平洋戦争と同時期である1940年代前半のシカゴ。貧しい若者たちがまともに暮らすためにあがかねばならない都会の片隅。男がふと興味を覚えた女の足跡を調査し始める。調査の描写、それから当の女の物語とが交互にカットバック。男は女に恋慕の情を抱き、時と労力を費やすが、女は次々と新しい人生へと階段を登ってゆく。後に残される不幸な男たち。天性の美しき悪女に徐々に近づいてゆく青年。

 二人ともに嘘と偽名を駆使して世の中を掻き分け必死に進んでゆく姿は、ある意味でエネルギッシュであり、強引である。女は富のために、男は恋のために。よくある悪女物語を、二つの視点でパラレルに描き、クライマックスで二つの物語が合流し、思いも寄らない結末へ導かれてゆくという劇的な構成そのものが古典的で味わい深い。

 ミステリーという以前にストーリーテリングに引き込まれ、時代や都市の貧富の差を陰影深く描き分けてゆくノスタルジックな物語。スリリングな結末が唐突に訪れ、いきなりすべてがあっさりと終わる。ミステリーというよりもやはりドラマであり、ファム・ファタールの物語としてもこれは秀作。謎よりも人間の内面に向けられた作者の眼差しがわかる。胸苦しく、狂おしいほどの男と女の思いがぶつかり合う、あまりにも皮肉なドラマなのである。

 ちなみに『歯と爪』『消された時間』は既にそれぞれ1970年代に出版されているが、本書はニ作より前に書かれた幻の傑作と言われるものだそうである。この三作はどれも二つの物語を同時併行して進めるという同一の手法で書かれたミステリーであり、三作を合本しタイトルを『トリティック』として1970年に米国で出版されている。先の作者やハリディの解説はこの合本掲載のためのものである。

(2003/03/13)
最終更新:2006年11月20日 00:15