デジモン小説特電第2回
「デジモン小説の遅れてきた神話『幾千のアポカリプス』」
第2回がやってきた。正直、このコラムの存在を忘れている人も多いだろう。別に忘れていても構わない。筆者も思い出した時に「まぁたまには書くか」とかそんな気分で書いているのだから。
さて『幾千のアポカリプス』である。筆者は気が重い。なぜかって、こんな人気作をコラムで扱うのである。ファンをたくさん抱えているし、褒めようが貶そうが「何お門違いなコト言ってんだ全然分かってねぇよ死ねエロメガネ」くらいは言われそうだ。尤もひと月くらい前に筆者は既にこの人気作の看板を汚してしまっている※1ので、今更気にしなくても良いのかもしれない。
デジモン小説界全体の、いわばマクロな視点から『幾千のアポカリプス』を語る場合、まずは「中村角煮」という作家についてしっかり語らねばなるまい。といっても彼は秘密を色々と抱えているので、ここで話せることは本当に僅かなのだが……。ものすごくざっくりと言ってしまうと、「ミドル・スクールのデジモン小説家を代表する一人」とでも言おうか。
最初のアニメ四作品が終了した2003年春以降、デジモンは最初の暗黒時代※2を迎えた。玩具展開は一気に冷え込み、「デジモンアドベンチャー」をリアルタイムで見ていた世代は大人になり、デジモンから離れていった。アニメ「デジモンセイバーズ」の放送開始などでデジモンが再び盛り上がりを取り戻した2006年までは3年間の空白があった。
こう書くと2003年~2006年はデジモンがただ下火になっただけのように見えるが、筆者はこの3年間こそ、デジモン小説界にとって非常に重要な期間だったのではないかと思う。中学生・高校生になってもまだオリジナルデジモンストーリー掲示板に貼りついていた僅かな好事家たちは、各々の力でデジモン小説を急激に成長させた。このコラムの第1回でも語った『Egg and I』の登場により、デジモン小説家たちの中で「好き勝手に自分だけが想像できるお話」を書いていればいい、という風潮は消えていった。平均年齢の上昇も、読者の目をごまかせなくなってくる一因だった。このような過酷な環境の中、それまでとは違う多くのデジモン小説が生まれた。所謂オールド・スクールの時代が終わり、ミドル・スクールの時代がやってきた。
この時代のデジモン小説の特徴として「王道作品の減少」「ダーク・ヒーローの出現」などが挙げられる。それまで続いていたアニメ作品に精通していた不文律が消え去ったことで、デジモン小説もそれまでの見えない呪縛から解放された。この時代のデジモン小説は、オールド・スクールとは違う意味で実に自由だった。小説家たちはそれまでのデジモンのルールよりも、自分の好きな小説やゲーム・アニメに発想の原点を求めた。また、「秘密組織に所属する影のトラブルバスターが主役となりデジモンと戦う」というタイプの作品※3がかなり増えた。この時期に台頭した内のひとりが中村角煮さんであり、彼は同期の多くのデジモン小説家と同様、オールド・スクールの作品とは一味違う数々の作品を発表していたのだ。
説明が長くなってしまったが、そこで今回の『幾千のアポカリプス』である。連載が開始した2009年といえば、オリジナルデジモンストーリー掲示板が終了し、NEXTが稼働を開始した激動の時期だ。しかしこの作品が持つ雰囲気は、まさしくミドル・スクールの小説たちが持っていたものだった。単なる自画自賛で終わらず、ともすれば馬鹿にされがちな、単なる二次創作である「デジモン小説」というジャンルに真摯に向き合う作品だった。
角煮さんが以前から語っていたこだわりに「デジモン小説であることの必要性」がある。デジモン小説は単にデジモンが出ていればいいという訳ではない。その話が、そのキャラクターが「デジモン以外の何か」で代替できる作品はデジモン小説ではない、というのが彼の持論だ。筆者も全く同感だが、果たしてデジモン小説のうち、全体の何割がそれに該当するだろうか?何より、ミドル・スクールの作品群は、「小説」としてのレベルは高くとも「デジモン小説」としてどうか、という疑問が沸く作品は多々あった。それまでのデジモンのルールを設定面で打ち破ってきたミドル・スクールの作品群こそ「デジモン小説である必要性」を疑問視されがちなのではないか?
この問題に、角煮さんは自身の作品で回答した。「オリジナルの設定を作品の世界に加える」という、二次創作としては反則スレスレの方法を採用した。「人間の世界もデジタルワールドの一部」であり、「選ばれし子供」は「デジモンに憑りつかれた哀れな子供たち」である。アニメのファンの怒りを買ってもおかしくない設定※4だ。おまけに作品自体の構造も、時間軸が行ったり来たりするので、初見では混乱すること必至※5。何もかも、アニメしか知らないデジモンファンや、それまで王道作品に慣れ親しんだデジモン小説読者には奇怪なものであった。
しかし、これらの設定は全て、物語のクライマックスのための布石だった。角煮さんは思いもよらない内容で「デジモンの物語としての意義」を最後に用意していた。ネタバレになるのでこの場には書かないが、この回答は本当に素晴らしいものだった。勿論、ミドル・スクールの「純粋な小説としてのレベルの高さ」も、更にブラッシュアップされていた。
『幾千のアポカリプス』が凄いのは、その回答によって、オリジナルデジモンストーリー掲示板が生まれてから10年以上経つ2011年に完結した小説にして、デジモン小説界の『神話』とも呼べる存在になってしまったことだ。なってしまったというより、「自分から成った」という方が適切かもしれない※6が。傑作か駄作かを考えるよりも、まずはその「デジモン小説としての意義」を考える方が、この作品の重要性を考えるには適切なのだと思う。『幾千のアポカリプス』はそういう意味で、今後デジモン小説の歴史を語る上では外せない一作となるはずだ。
ちなみに筆者は、もちろん単独の作品としても『幾千のアポカリプス』は傑作だと思う。ただし、完璧な作品だとは思わない。何故かって、中村角煮さんにはもっと面白い作品を書いて頂きたいし、自分でも『幾千のアポカリプス』を超える作品を書いてみたいからだ。あ、石投げないで。痛いから。
文・Ryuto
※1「純真無垢のエグザミネーション」(No.2838)のこと。ご感想、お待ちしております。
※2なぜ「最初の」と表現しているかは、お察しください。
※3この辺りは後年の「デジモンセイバーズ」の設定を先取りしていて、非常に興味深い。
※4最近は公式の方が古参ファンの怒りを買ってでも果敢な挑戦をしているので、その意味ではNEXTの作家はもっと頑張らなければならないのかもしれない。
※5本文ではこう書いたが、実際はプロローグに該当する「序」と最終章にあたる「3」の間に「それまで起こったこと」を描く「1」と「2」が存在しているので、実は話は一貫した流れを持っている。
※6執筆協力しておいて難だが、それこそ本当に最終章は「まさか本当にやるとは」の連続だった。あれをやってのけた中村角煮さんの肝っ玉には頭が下がる。