いつか、旅先で出会った女の子に、綺麗だね、と褒められた少年の青い瞳。
それを覆う瞼を通して感じる、仄かな灯りの揺らめきに、混濁していたアルの意識は覚醒へと導かれた。
判然としない思考のまま、目を開けて何となしに周囲を見渡した。
ちょうど正面に当たる壁には、二対の蝋燭の炎。その間には、鉄で補強された木製の重厚な扉が鎮座している。
小さな炎が揺らぐ、微妙な違和感を感じる前に、どこからか吹き込んできた弱い、けれども、冷たい風に体を震わせた。

「う・・・・・・ぁ・・・・・・」

立ち上がろうとして、地面が傾いた。
微かな火の光が、残光を残して視界の端へと消えていく。
傾いていたのが地面ではなく他ならない自分自身だと気づいたのは、右半身に衝撃と共に鈍い痛みが走ったときだった。

「なに・・・・・・? こ・・・・・・れ・・・・・・」

上半身を起こして、目を細める。多くの、アルの頭ほどの大きさの石で作られた無機質な部屋が、ぐるぐると回転していた。
体を支えている両腕が、ちゃんと地面にその手のひらを突き立てているのかも怪しくなってくる。
前触れも無く、胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。酷く、気持ちが悪い。
その感覚は、経験のない事ではなかった。幼い頃、馬車に初めて乗ったあの時の、感覚にそれは酷似していた。

「もう、起きたのね?」

そんな、妙な高い声が暗い石室に響いたのは、アルを嘲笑うかのように回っていた世界が、ようやく落ち着きを取り戻そうとした頃だった。
跳ねるように顔を上げる。同時に目前の扉が、重々しい軋み音と共に押し開かれていく。
アルは、どこか霞がかった思考を抱えて、その光景をただ眺めるだけだった。


半分だけ開かれた扉の向こう。傍らに輝く灯火の明かりに照らし出されたのは、髪の長い女性だった。
肌が、病的なまでに青白い。
普通なら、すぐにでも医者の元へ担ぎ込まれそうな程に不健康に見えるだろうけれども、それに付随する他の要素が、その印象を打ち消していた。
身長は160cmくらいだろうか、腰まで届く金色の髪は、重力に逆らわずに綺麗に伸びている。
爪先からてっぺんまで、黒一色に統一された衣装。肢体のラインは、そのせいもあってか闇と混ざり合ってよく判別できない。
けれども、昔、どこか大きな町で遠目に見た貴族の令嬢のように、均整の取れた美しさを持っているように見えた。
その、生気のない肌の色とは対照的に、形の良い唇につけられたルージュは、生々しいまでに赤い。
そして何より、鋭利な刃物を連想させる端の吊り上った目。その鮮血のような紅い煌きが、人の域を超えた美しさを作り出していた。


「だ、誰・・・・・・?」

何か本能的な恐怖を感じながら、尋ねる。
第三者の目から見れば、一種の現実逃避に思えただろう。
そんな問いかけを、美貌の女性は妖しく笑って流す。

「怖いの?」

なぜか、アルは言われて初めて声が震えていたことに気づいた。失礼だったかな、と、何処か異常な思いが、頭の片隅で湧き上がる。
笑みを浮かべながら女の人は、コツ、コツ、と音を鳴らしてゆっくりと近づいている。同時に、その全身が徐々に蝋燭の光に晒される。
微弱な空気の流れがスカートを少し揺らした。その様は、とても優美に見えた。
その幼さを思い起こさせる出で立ちはしかし、女性自身が持つ雰囲気によって、蠱惑じみた色気に塗り替えられていた。

「ふふ、こんな物を撒き散らすなんて、仕方のない人ね・・・・・・」

屈んだ彼女の視線は、アルの胸の下へと向いていた。
つーんとした酸の臭い。少し前に耐え切れずに吐いた汚物がその床に広がっていた。
自然と・・・・・・そう、当たり前だとでも言うように、酷く申し訳なく思えて目を伏せる。
どうしてだか、叱られても仕方のない事のように思えた。
もし、この部屋に別の誰かが居ればその光景は、絶対的強者に服従する弱者と言う情景に見えただろう。


年若い少年の脆い精神は、この残酷な非現実に侵食された現実を受け入れることを、拒否していた。
だが、悠然と少年を見下ろす、この人外の女は、そんな逃げを許すほど優しくはなかった。
彼女の身に着けているその服は元々黒色などではなかった。
清らかな純白の絹で編まれたその服は、持ち主の血で赤く染め上げられ、変色し、そのような色になったのだ。
彼女は、人の絶望する姿が好きだった。どんな微かな希望の輝きも、絶望の闇でぬりたくっていく。
その過程で見れる人間の嘆きを見ることが、食事の次に好きだった。
だから、こんな偽りの希望すらも、彼女は見逃さない。
哀れな少年は気づかない。自分を見下ろす女の顔が、恐ろしいほどに酷薄な笑みを浮かべていたことを。


「ねぇ・・・・・・お父さんは?」

その言葉は、アルの心の中に眠っている何かを、チクリと刺激した。
怪訝に思って、女性をまじまじと見る。逆光になったその表情は上手く判別できない。
ただ、二つの紅い光だけが見えて、その不思議な輝きにアルの意識は釘付けになってしまった。

「オトウ・・・サ・・・・・・ン?」

自然と口をついて出た声は、まるで自分の物でないように無機質だった。
感情が全く篭っていない声で、何度も何度も、アルは口を動かして、オトウサン、という単語を繰り返す。
理解してはいけない、と、心のどこかで警鐘が聞こえてくる。けれど、一度動き出した思考は止まらない。
バラバラになっていた正常な思考が、少しづつアルの中で組み立てられていく。
それは、崩壊へ続く道を歩き出したことを示していた。けれども、その時点でのアルは、それに気づける由もない。

「なんで・・・・・・ここにいるの?」

女は、また別の問いかけをしてくる。
途切れることのない紅い光が、アルの瞳を覗き込んでいた。呆けたように開いた唇の中で、舌がせわしなく動いている。
精一杯の抵抗にも関わらず、欠片がゆっくりと、しかし着実に組みあがっていく。
とても強い感情が、重い蓋を突き破って表へと飛び出そうともがいていた。

「そう、そして――貴方の言う通り、私は誰でしょう?」

瞬間。
石室の壁に大きなシルエットが生まれた。
それは・・・・・・翼。空を飛ぶ鳥のような、あの美しくも、強靭な翼などではない。
そこにあるのは、醜く、矮小な、毒々しい悪魔の翼。
アルを見下ろす女の唇が、左右に大きく吊り上げられた。見上げるアルの瞳が、大きく見開かれる。


狭く、牢獄のような石室の中に、少年の悲鳴が響き渡った。

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最終更新:2007年01月15日 11:19