闇に閉ざされた湖上に、乱れた吐息が響いている。
吹き荒れる風。降り注ぐ雨。
時折、思い出したように轟く雷が、敷き詰められた絨毯の上をただ一人駆ける少年の、恐怖にゆがんだ顔を照らし出していた。

少年――アルフレドは、学者の家に生まれた子供だった。
主に、未だ開発の進んでいない地方に残る伝承などを研究テーマとしていた歴史学者である父の下
山のような本に囲まれた幼少時代を、アル――アルフレドの子供の頃からの愛称――は、送っていた。
穴倉のような、空気のよどんだ暗い父の書庫の中で、物心ついた頃から様々な言語と格闘する日々。
そんな生活のせいもあってか、アルは、同時代の子供に比べていくらか賢くはあったけれども、体が弱く友人も居なかった。

毎日のように目が覚めては本の虫になる心配に思ったのか、彼の父――ビルが、自らの研究の手伝いをアルにさせようと決心するまで
そう時間はかからなかった。

ビルは、その歴史学者としての研究生活の大半を、現地調査と言う名のフィールドワークで占めていた。
目、耳、それとも天のお告げか。情報源問わず、何か興味深い話を知れば、1も2もなくそこへ飛んで走り回る日々。
そういう点で言えば、彼は歴史学者と言うよりもむしろ、考古学者と言った方が近いかもしれない。
そんな生活は、当然、家族との時間の犠牲の上に成り立っていた。
1年の大半を何処とも知れぬ町、国、大陸で過ごす毎日。
家に帰ることは殆どなく、また、珍しく帰ったとしても、腰を落ち着けることなく数日を待たずに飛び出していった。
そんなよく言えば夢見がち。悪く言えば無責任な夫との生活に嫌気が差したのか、気づけば妻は家におらず
その頃には、一緒に連れて行ったアルと共に、ビルは捨てられていた。

アルが常日頃文句ばかり言う母より、おおらかで優しく、毎日を楽しそうに生きている(ように見えた)ビルに懐いていたのは
ビルにとっては幸運なことで、アルにとっては、後々の不幸を思えば不運なことであったかもしれない。
少なくともあの時、珍しく優しかった母の手を握っていれば、こんな結末を迎える事はなかったのだから。
まぁ、そういう事もあって、ちょっとした争いの結果アルの親権はビルに移る事になったのである。


10年近くもの小旅行によって若い頃を思えば見間違える程に鍛えられたとは言え、未だ16歳の少年に極限状態での
肉体の運用は余りにも厳しかった。
それを示すかのように、曲線状に伸びている所に差し掛かったところで、疲労に耐え切れずに足がもつれ
冷たい床へとアルは顔から飛び込んだ。
あっ・・・・・・という、短かい、だが、あらん限りの恐怖と絶望を詰め込んだ悲鳴のような声が、明かり一つない廊下を反射する。
強かに打ちつけた母譲りのどこか女性じみた整った顔の中心から、赤く光る、ぬめった物体が湧き出る。

どうしてこうなったのか、と、自然と流れ出す涙をぬぐって、ぐちゃぐちゃになった思考で思い出す。

いつものように、どこからか父が持ってきた話は、東欧のとある村に伝わる伝承だった。
曰く、『吸血鬼』
最近では割と有名になった、文字通り血を吸う化け物。
古今東西、吸血鬼と言うのを題材とした物語は多く、十字架に弱い、流れる水の上を通れない、などなど
明確な弱点が少ないながらも知られている、幻想の中での生き物。
そんな吸血鬼が、実在し、猛威を振るったという伝説が、その人里離れた村には残っていた。

こう言った、『ありえざるもの』をモチーフとした伝説はな、たいてい、猟奇的な事件を元に出来てるんだよ――

そう、楽しそうに荷造りしながら語った父の顔を、覚えている。


件の村について、一週間もしないうちに目星はついていた
彼ら親子が赴いた地。かつてその一帯を支配していた領主の城。
人の手が及ばなくなって久しいというその城が、物語の舞台であるようだった。


感謝の言葉もそこそこに、お礼のちょっとした物産を跡に、朝早く彼らは村を出て、その城へと向かっていた。
その城は、少しばかり入り組んだ山林の奥にそびえているらしい。
先を行く父が、防衛的な意味もあるんだよ、と、息子が怪我をしないように道を作りながら言う。
今でも残る多くの古城が、小説にあるような華美な物ではなく、酷く陰鬱とした造りをしてたらしい。


変化は徐々に訪れていた。

朝出た頃には雲ひとつないほどに澄み切っていた空が、道半ばでは青い部分が見えないほどに灰色の雲に多いつくされていた。
それにつれて空気が少しづつ重くなってくる。一雨来るな、と生い茂る木々の間から僅かに見える空を眺め、父は呟いた。
はたして、雨は確かに来た。それも、特大の。
辺りの太い幹を持つ木々すらも、なぎ倒さんばかりの強風が僕たちを襲っていた。
目も開けられない程に降りつけてくる雨粒の一つ一つが、長い探索によって疲労を隠せなくなった体から熱を奪っていく。
目的の城にたどり着いた頃には、僕はおろか、こう言った事に慣れている、といった父も、ぐったりと石造りの床に言葉もなく座り込んでいた。



城の中は、長く人が訪れなかったという話にしては、妙に清潔だった
こういった建物に、定番のように多くある巨大な蜘蛛の巣や、穴の開いた壁など、そういった物は何一つ見つけられなかった。
ただ、所々にこびり付いている赤い斑点が、この城で何かがあった事を、如実に語っているように見えた。

「父さん。これ・・・・・・血・・・・・・かな?」

幾分か回復した体を起こして、ランプ片手に歩き回っていた僕は、特にくっきりと残っている部分に淡い光を当てながら
同じように辺りを歩き回っている父に尋ねた。
父も、同じ疑問をもっていたんだろう。難しい顔をしながらしかし、酷く楽しそうな声でんーっと唸ると、満面の笑みを浮かべて
「なんだ、もしかして怖いのか?」と、僕の頭にその大きな手を載せながらはっはっは、と笑う。
むかっときて、違うよ! と声を大きくして言いながら手を払いのけると、「アル君ってば怖がりでちゅねーはっはっは」と
大広間を駆け回る。まだ僕をからかうつもりのようだった。


正直言うと、父の見通しどおり、僕は恐怖していた。
こんな経験が今までなかったとは言わない。生々しい虐殺の後をこの目で見たのは、1度や2度ではなかった。
勿論、そういうのはトラウマとして残ってはいるけれども、今この僕に恐怖を呼び起こす力もない程にや、その傷は癒されていた。
この恐怖はもっと別の何か。そう、まるで、僕の周りの世界が、今まで僕が知っていたソレとは違うような――


「…・・・ル。ア――――。……・・・・・・アル!」

「う!? ええぇ!? はいっ!」

鼓膜を破るかのような大きな声に、思わず体をすくみあがらせて直立する。
恐る恐る隣を見上げれば、そこには呆れた顔で僕を見下ろす父が居た。

「全く。何度呼んだと・・・・・・まあいい。アル。父さんは少し奥を見てくる。アルは野宿の用意をしておいてくれ」

そう言って、父は背後を指差した。ランプを掲げて、出来るだけその方向を照らすと、下へと続く階段が見える。
その下の部分は、どこまでも続く闇に飲み込まれて少しも見えない。
光を際限なく飲み込んでいくような、そんな暗闇がまるで、口をあけた獣のように見えて、背筋に寒気が走った。

「ああ、うん。でも――」

「でも? なんだ?」

言いよどむ。馬鹿にされそうなのが嫌だった。
長く一緒に暮らしてきて、父には酷く子供のような、そんな悪戯好きな一面があるのは理解していた。
さっきの行為も、まさにそれを表している。そんな父の行動に、幼い頃の・・・・・・今でも僕は悩まされていた。
まぁ、そんな所も時には長所になるので、特に今までそれについて言うことは無かったけれども、これからは少し考えるべきかもしれない。

「笑わないでね? ・・・・・・気をつけて。なんか、ここ、おかしい気がする」

念を押して、言う。
正直、言い終わった後に、、笑わないでね、と、付けるのは失敗だと、心の中で頭を抱えた。
そんな事を言ったらまるで、笑ってくれ、と言ってるようじゃないか――
脳裏に、馬鹿笑いをしながら僕の頭をなでる父の顔がフラッシュバックする。それは、僕の嫌いな表情の一つだった。
けれども、父の反応は、そんな僕の予想とは違っていた。

「――そうだな。ああ、気をつける」

はっ、と思考を戻して父の顔に瞳の焦点を合わせる。
それは、この十年余りもの間、一緒に暮らしていた僕も余り見たことが無いような、そんな、珍しく真面目な顔だった。
いつか母の言っていた言葉を思い出す。
あんな、あんな表情さえ見なければ、あんな男と――
そう言う母の言葉は、罵詈雑言にまみれていたが、その表情はひどく柔らかだったことは覚えている。

今では離婚して何処にいるかも分からない、そんな母にさえそう言わしめたその表情は、僕の好きな表情の一つだった。


今になって思えば、父は何か本能的な危険を感じ取っていたのかもしれない。
だがそれでも、学者としての知識欲。好奇心を、それは抑えることが出来ずに、父は自ら獣の口内へと飛び込んでいったのだろう



声にならない叫びが、雷鳴のよりもなお高く響いてきたのは、いくつかの機材を抱えた父が階段を下りて、一時間程経ったころだった。


「・・・・・・父さん?」

手を止めて、顔を上げる。返事は無い

「とうさーーーーーん!」

今度は叫ぶ。
聞きなれた声は返ってこなかった。
けれども

「あら、もう一匹いたのね・・・・・・ふふ、今度は美味しそうだと、いいわねぇ・・・・・・」

代わりに、どこからか聞こえてきたのは、女性の声。
直感的に僕は悟る。
この声の主にとって僕は、猫にとっての鼠のようなモノだと。
狩られる鼠が出来ることは、ただ、猫に狩られないように、まるで猫の玩具のように無様に逃げ回ること。
そこまで理解して、後は足が自然と地面を蹴っていた




「あらあら、もう、追いかけっこは終わり?」

「ひぃっ!?」

後ろから、声が聞こえてくる。
音の発生源は、少し高い位置にあった。つまり、この声の主は、僕を見下ろしながら言っているのだろう。
立ち上がってすぐにまた駆け出そうとする。けれども、体勢が悪く、上体を起こす前に、背後に居るナニカの餌食になってしまいそうだった。

「若いのに・・・・・・体力が無いのね? でも、そうね・・・・・・その体じゃ無理はないかも」

子供の頃の不衛生な生活がたたってか、僕は同年代の友人達に比べていくらか体の成長が遅い。
元もとの女顔もあいまってか、そういう服装をすれば、初対面の人から女の子に間違えられるだろう、という嫌な自信もあった。
いつもなら、言われれば頭にきて、下手すれば手を出してしまうようなそんな侮蔑の言葉も、この恐怖に縛られた心には届かない。
言い返すことも、文句を言うことも出来ずに、僕はただ震えていた。


「女の子だと思ったら、男の子なのね・・・・・・血の匂いで分かるわ」

視界の端に、酷く青白い肌の手が見えた。
人間、だと、安心することは出来なかった。少なくとも『人間』は、血の匂いなんかで性別を判断することは出来ないはずだ。
少し伸びた赤く染められた爪が僕の頬を掻く。触れたところがチクリ、と痛んだ。肌に感じるのは、生暖かい何かが頬を伝う感触。
切り裂かれた頬の傷口から、一筋の血が流れていた。


「あ・・・・・・ぁ・・・・・・」

もう、悲鳴すら出ない。凍りついた喉が、声を出すのを拒否していた。
口を目いっぱい開いても、聞こえてくるのは、ひゅー、ひゅー、と鳴る乾いた息だけ。
腰が抜けたのか、立ち上がろうにも力が入らない。

「美味しい・・・・・・若い、まだ性を知らない子供の血は・・・・・・やっぱり、格別ね・・・・・・」

うっとりと、まるで極上の料理を食べたような、いや、事実、後ろのナニカにとって僕の血はまさに極上の料理だったのだろう
そんな、艶やかな声が聞こえてくる。ぺちゃり、ぺちゃり、という、唾液の音が酷く耳に響いた。
ますます、体を縛る恐怖と言う鎖が増えていく。事実、指一本僕は動かせないで居た

そんな時、雷鳴が――
一際大きい爆音と共に、城を激しい光が包む
それと共に、僕の眼前に一瞬広がったシルエットには、巨大な、翼のような――


そして、僕は駆け出した

声にならない叫びを上げながら、無人の廊下を駆ける。生気の無い冷たい石の壁に所々見える赤い模様が、ますます僕を駆り立てた。
手の振りもめちゃくちゃ、足の音もめちゃくちゃ。ただ、脳の命じるままに体を動かす。

「もう、追いかけっこはお仕舞いなんでしょ? 鬼に捕まった子が逃げちゃ、だめよ――」

後ろから聞こえてくる、クスクスと愉しそう笑いながら告げてきた声と共に、僕の視界は暗闇に閉ざされた。