「困ったなぁ」

夜9時
通学路を脇にそれて、少し歩くと見つかる、家と学校とを10分で往復することが出来る山林の獣道
入学してから一年とちょっと、毎日のように使っている道なのに、なぜか、今日に限って僕は迷っていた
手に握っている携帯電話を開く
迷ったと自覚したときから何度も繰り返しているこの行為は、だけど、『圏外』という二文字を確認することで終わる。電池も残り一本になっていた
夏の生暖かい風が、木々の間を吹き抜けている。どこかで風切り音が鳴る度に、枝の擦り合う音が
月の光も届かない雑木林に響いていた

「ここ、どこだろ・・・・・・」

僕は途方にくれていた。学校と出る頃から鳴り続けていたお腹を抱えてうずくまる
別に、迷っていると言う事実自体はなんでもなかった。そう大きくもないこの山、朝日が昇れば出れる自信は有った
けれども、この空腹だけはどうしようもない
弁当なんて早弁するほうで、二時間目の放課には消えている、部活が始まる前には今朝コンビニで買ったパンももう欠片も残していない
夏の太陽は体から水分をじりじりと奪っていく。手元には、お茶の一杯すら無かった
加えていつものようにへとへとになるまで練習を続けていたのもある。おかげで、手足に溜まった疲労は結構なものだった


「ねえ、お兄さん。何してるの?」

そんな風に声をかけられたのは、いい加減空腹と疲労が限界に達して、近くにあった大きな石の上に腰掛けたときだった
耳に心地いいちょっと高めの声。発生源は背後にあった。突然のことに驚いて、飛び跳ねるように後ろへと振り向いた
視線の先には、中学生くらいだろうか、見慣れない黒で統一された服を着た少女が、僕を真っ直ぐと見上げていた

「き、君は?」

なぜか、声が震えていた。僕は、みっともない程に狼狽していた
あまりにも急な出来事だったからか、それとも、少女が近づいてくることに気づかなかったためか
それとも、別の理由か

「私? 私は、音羽。お兄さんは誰?」

そんな僕の様子を気にも留めずに、邪気の無い声で少女は尋ね返してくる
――見たところ、なんの変哲も無い女の子だ。当たり前だ、変哲のある人間なんて居たら困る
ただ気になるのは、なんでこんなところにいるのか、って事だけど・・・・・・


「・・・・・・僕の名前は、慶介。近くの高校に通ってるんだけど。音羽ちゃんでいいのかな。なんでこんな所に?」

「私は、いつもここを散歩してるの。家に誰もいないから、一人の夜は暇なのよ。ここには、虫達が一杯いるから」

そういって、少女・・・・・・音羽ちゃんは、両手を広げて、踊るように身を回転させる
フリルのついたスカートや袖が、それにあわせてひらひらと舞った
・・・・・・言われてみれば、確かに、山の中は虫の鳴き声で一杯だ。さっきまでは余裕が無かったせいか気づかなかったけれど
まるで合唱しているように聞こえる虫の鳴き声は、退屈や寂しさを紛らわせるのにはいいかもしれない

「お兄さんは、どうしてここに?」

「う・・・・・・」

声が詰まる
迷った、なんていい年して恥ずかしくて言えなかった
そんな僕を見て、香織ちゃんは暫く、赤みがかった形のいい小さな唇に、細い指を当てて何かを考える仕草をした
そして、何かにひらめいたように、指をくるりと回して

「わかった。お兄さん。迷ったんだね」

「い、いやだなぁ。ははは。そんな事ないですよ?」

「お兄さん。嘘つくの下手だね。あ、名前教えてもらったから、慶介さん、でいいのかな」

「ん。呼び名は好きにしていいよ。それよりも、参ったなぁ。うん、確かに僕は迷ってる」

楽しそうに言う
両腕を後ろ手に結んで、上目遣いで微笑みながら言うその姿は、同年代の女友達と比べても可愛かった
むしろ、あれはもう可愛いと言う年代を超えたのかもしれない。可愛いっていうのは、こーいう・・・・・・

「いや、まて」

声に出して思考を止める。怪訝そうに音羽ちゃんがこっちを見た。なんでもないよ、と軽く手を振る
少々危ない方に想像が働いていた。僕に、そっちの気はない、と信じたい・・・・・・


「そっかぁ。お兄さん迷ってるんだ・・・・・・ね、お腹すいてない?」

結局、僕の呼び名はお兄さんで決まったらしい
音羽ちゃんは何度も、お兄さん、お兄さんと、口の中でつぶやいて、満面の笑みを浮かべた

「うん。結構空いてる。ねぇ、ここらへんにコンビニないかな?」

こんな女の子が暗い山の中に居るってことは、多分、民家が近いって事だろうな
僕の家の近くなんて、そんな都合のいいことまでは起こらなくていいから、コンビニ辺りで道を聞いて、ついでにご飯も・・・・・・

「コンビニ? 一番近くて40分かかるけど」

「う。そんなに遠いの?」

「うん。私の家なら、すぐそこにあるけど。よければ来る?」


苦笑いして遠慮する僕を尻目に、事も無げに音羽ちゃんは言い放った
流石に驚いて、声が少し大きくなる

「え!? いや、それならなお更・・・・・・ほら、仮にも僕は――」

「いいのいいの。ここ一週間以上一人で過ごしてたのよ? 寂しくて寂しくて。それとも、お兄さん。私を襲うの?」

途中から音羽ちゃんは急に猫なで声に変わった。さらに、気味悪いと言うよりも、本当に色気があるのが困った事だった
どきっと、心臓に走った衝撃を無視して、僕は手に持った鞄ごと両手を振る

「そんな事ないないない」

「だったら、いいでしょ? ほら、こっちきて」

そう行って、音羽ちゃんは僕の腕を掴んで、さっき指差した方向に向かって歩き出した
体格に似合わず、その力は大きくて、不意のことでバランスを崩した僕は、大した抵抗も出来ずになすがままになっている
余程嬉しいらしく鼻歌も聞こえてくる。効いたことない歌だったけれど、綺麗な旋律だった
まるで、子守唄のような、そんな心地いい歌


鬱蒼と生い茂る、光の届かない森の奥での、この出会いに僕は感謝した
気づけば、虫の鳴き声は止んでいた
生暖かい風だけが、変わらず吹き抜けていた

音羽ちゃんの家は、割と広い木造のペンションのようだった
そういえば、地味にこの辺りも避暑地として有名だったな、と、どうでもいい事を思い出す

「お兄さん、こっち」

扉をくぐった後、玄関を見回していると、少し遠くから音羽ちゃんの声が聞こえてきた
音の方向に視線を向けると、半開きになった扉の向こうから、ちっちゃな顔がちょこっとこちらを覗いていた
僕が気づいたらしいことを察したのか、右手で小さく僕を招く

「電気。つけなくていいの?」

段差に気をつけながら靴を脱いで、すぐ前に出されていたスリッパを履く
しっかりとした造りの廊下を、足元に気をつけて一歩一歩踏みしめながら、僕は尋ねた

「うん。私ね、目が弱くて。暗いところから急に明るいところに出ると、どうしようもなく痛いの。ごめんね」

「あ、そうなんだ。いや、いいよ。そういうのは仕方ない。それに、僕も随分目が暗いのに慣れたから、なんとかなるさ」

「本当、ごめんね。お礼に美味しいもの食べさせてあげるから」

可愛らしい取っ手のついた扉を開いて、音羽ちゃんの待つ部屋の中へと足を踏み入れた
食事を取るところだろうか、大き目のダイニングテーブルが中心に置かれた、15畳くらいの広めの部屋
暗闇に閉ざされた部屋の中は、ミントの香りで包まれていた

「ミント、好きなの?」

清涼な香が、僅かにあった眠気を吹き飛ばす。
お腹の中におもいっきり吸い込んだ後、僕は、部屋の隅で何かを探しているのか、ちょこちょこと揺れる小さな背中にたずねた

「ううん。違う。ただ、ニオイを消すのに丁度良くて・・・・・・あ、あった! ちょっとまってて、今作ってくるー!」

「臭いって、なんの・・・・・・? って、おーい」

呼び止める僕の声を振り切って、音羽ちゃんは手に何か塊のようなものをもってかけだした
丁度僕が居る反対側にある扉の向こう側に、少女の後姿が、とんとんとん、という、小さな足音と共に消えていく
一人、部屋に取り残された僕は、手近な椅子を引いてそこに座った
体全体で息を吐く。数秒後には、気を抜いたせいか、たまり溜まった疲労に体全体が悲鳴を上げていた


「おまたせ」

部屋の隅においてあった古時計が短い鐘を一度鳴らした所で、音羽ちゃんが戻ってきた
両手に持っているのは丸いお盆。その上には湯気の立ち上るおいしそうな料理を載せた皿が三枚おいてあった
味噌と肉……そして野菜と、米の匂い
遠目だから自信は持てないけれど、どうも、ご飯と味噌汁と野菜炒めのようだった

「いつも自炊してるから、自信はあるけど……口に合うかな?」

音羽ちゃんは、僕の目の前に、ことん、と皿を並べてから、お盆を胸に抱いて不安そうに言った
ただ、その心配は、料理を目の前にしている僕には不要なように思えた
天窓から差し込むわずかな月の光が、料理を照らし出す。きれいに切りそろえられた野菜。ふっくらとした米
具沢山の味噌汁。何より、ただよってくる香りが食欲を刺激する
仕事ばかりであまり家事をしない、うちの母親よりも上手にできている気がした

「じゃぁ、いただきます」

「……どう?」

僕が口にホウレン草を入れると同時に、音羽ちゃんはぐいっと身を乗り出して尋ねてきた
その仕草が可愛くて、わざと難しい顔をしながらゆっくりと噛む
時計の秒針が鳴るたびに、不安に埋められていく音羽ちゃんの顔も、儚げで可愛くて、もっと意地悪したくなってくる
でも、後が怖いので思い直して。僕は無言で右手でグーサインを作った

「美味しい……?」

「うん。美味しい。驚いた……僕の母さんよりも美味しいかもしれない」

幾分かの驚きと称賛をこめて言う。正直、これほどとは思っていなかった
最近は家事の出来ない子供が増えているという
実際本当のことなんだろうけれど音羽ちゃんを目の前にしていると、そんな事はないように思えた
音羽ちゃんはそんな僕の言葉を聞いて、胸をなでおろして

「よかったぁ……」

と、心から嬉しそうに言った


「ご馳走様」

大きくなったお腹を抱えながら、僕は、満足そうに言った

「ふふ、お粗末さまでした」

音羽ちゃんは、そんな僕を見て、楽しそうに笑う
山盛りあったおかずも、ご飯も、欠片も残っていない。こんなに一度にたくさん食べたのは久々だった

「あ、お皿、片付けるね」

自然と体が動いていた
音羽ちゃんの位置からは一番遠い皿に手を伸ばす
こんな遅い時間にお邪魔して、夕飯も食べさせてもらった。これくらいは当然の事
何より、美味しい料理だった事に対する感謝の気持ちがあった


そして、手が皿に今にも触れようとした、その時


「あ、いいのいいの。私がやるから」

そんな僕を遮るようにして音羽ちゃんも慌てて手を伸ばす
急に横から突き出された小さな手に、僕は反応しきれずに一瞬硬直した
二人の手が空中でぶつかって、僕の左手が微妙に揺れた
手の甲に感じる、生暖かい冷たい感触。シンプルな白いお茶碗に僕の左手はぶつかっていた
その反動でお茶碗が机の上からバランスを崩して落ちていく

「!」

慌てて、右手をその下に回りこませたけれど、間に合わない
古時計が短い鐘を二回鳴らした時と同時に、がちゃん、という音が部屋に響いた

「痛……」

「!?」

右手の指に鈍い痛みが走った
割れたお茶碗の破片がかすったのか、右手の薬指にちょっと深い切り傷がついていた
暗闇を、滴り落ちる赤色の血が切り裂いていく
背中で、はっと、息を呑む音が聞こえてきた

「ごめん……」

傷口部分を舐めながら、後ろにいる音羽ちゃんに振り向いて、謝る
でも、返事はなかった
怪訝に思って僕は後ろを振り向いた

「…………」

音羽ちゃんは、呆然と僕のほうを見ていた
怒っている……わけでも、ましてや、悲しんでいるわけでもない
ただ、僕を、いや、正確には、僕の切り傷をじっと見つめている

「音羽ちゃん?」

不思議に思って、声をかける。そこで、僕はその異変に気がついた
音羽ちゃんの唇が震えていた。両手はだらり、とぶらさがっていて、まるで力が入ってない
ひゅーひゅーと、小さな息をする音だけが聞こえてくる
そして、何より、音羽ちゃんの黒い瞳が……赤く染まっていた

「……え?」

僕が疑問の声を上げると同時に、頭に何か衝撃が走った
いや、その表現は正しくない。頭に衝撃が走るというよりもむしろ、体全体に走ったといったほうがいいかもしれない
視界がぐらり、と揺らぎ、傾く。両足は地面をしっかりと捉えることができなくなっていた
慌てて手をテーブルに突き出して体のバランスを保とうとする。でも、それも適わなかった
ぐるぐると回る世界。こみ上げてくる吐き気
まるで、スイカ割りの時の回転したすぐ後のようだった。いや、あれよりも酷い
いったい何が起きて、自分がどうなっているのか、まったく分からない
耳に響く、妙に高い音が正常な思考を奪っていく
意識を失うのに、そう長い時間はかからなかった

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最終更新:2007年01月09日 18:53