緩やかに曲がり、緩やかに登る小道。
 舗装はされていない。が、よく手入れされていて、乗用車なら問題なく通れそうだ。
 両脇は雑木林に囲まれている。この時期ではすっかり葉を落とし、静かでひっそりとした印象だ。
 そんな、地図にも載っていないような小道を、1人の少年が歩いている。大人びては見えるものの、未だ少年と呼ぶほうが似つかわしい顔つきだ。
 3桁の寂れた国道からこの小道に入って、はや十数分。徒歩なので大した距離ではないはずだが、方向感覚も距離感覚も、とうに失ってしまった。
(こんなに、遠かったっけ)
 この道を通るのは初めてではない。しかし、徒歩では初めてだ。
 足を止め、登山用の大きなリュックを背負いなおす。顔を上げると、小道の先に階段が見えていたことに気づいた。その先に、堅牢な門と、延々と続く塀。
 ようやく、目的地に着いた。安堵の息をつくが、大変なのはこれからである、と自覚しているので、彼の表情は硬い。
 門の下で、ひとつ深呼吸。
「突然の訪問、申し訳ありません! 宮垣和成が次男、恭二と申します! どうか、御当主様にお目通り願えないでしょうか!」
 精一杯の声量だが、屋敷の広さを知る彼には、それでも声が届いたか確信が持てない。
 もう一度声を上げようと息を吸ったところで、通用口の方が開かれた。
「無礼を承知でお願い申し上げます。御当主様にお願いしたいことがあり参上しました。ぜひ、ひとめ御当主様に!」
 顔を覗かせた青年が口を開く前に、深々と頭を下げて畳み掛ける。
「今すぐにとは申しません。御当主様にお暇な時間があるときで構いませんので――」
「良いよ」
「軒下ででも待たせてもらい――へ?」
「良いよ、と言ったんだ」
「あ、ありがとうございますっ」
 長期戦を覚悟していた彼は、あまりにもあっさりと承諾され、かえって困惑した。アポイントメントなしで会えるほど、宮代の当主は安くなかったはずだ。が――
「――あの、案内していただけるのでは」
 青年は通用口に立ったまま、動こうとしない。気まずい沈黙に耐え切れず、催促してしまう。
「案内、というか……いや、それは本気で言っているのかい? なら、ちょっとショックだな」
 妙なことを口走る青年の顔を、まじまじと見る。どこかで見たことのある顔――
「い、市郎さんっ!? いや、失礼しましたっ、市郎様!!」
「まったく、良く剣の稽古をつけてやったのに。顔も忘れるほど会ってなかったか?」
 はたはたと手を振りながら通用口に立つ青年は、日の本で最も多くの犬神を抱え込む武力集団、『宮代』を束ねる現当主、宮代市郎その人であった。



「すみません、その……」
「そう畏まるな。宮代の栄華も今は昔、だ。今の僕は、まあ良く言って“貧乏な旧家の若旦那”ってところだな」
 宮代家上屋敷の小道を、市郎のあとに続いて歩いていく。まさか、訪問した当の本人の顔を忘れていたとは。
 それにしても――言い訳がましいとは思うが、恭二は内心思わずにはいられない。
 市郎さん、変わった。明るくなった。



 先代の当主――市郎の父親――は漁色家であったが、市郎は正妻も含めて唯一の子どもであった。つまり生れながらの次期当主であったわけだ。当然、当主としての英才教育を施されてきた。
 しかし、市郎は宮代の大人たちに染まることなく、むしろ反面教師にして、驚くほど宮代的では無い人柄を形成してしまった。
 恭二自身をはじめ若い世代は、市郎を良き兄貴分として慕った。一方長老衆は、そんな市郎を好ましく思うはずがない。
 下からの期待と上からの圧力で、相当な心労があったのは想像に難くない。反対を押し切り、遠くの大学へ進学したのも(しかも大学院まで進み、6年間宮代を離れていたのだ)その表れだろう。
 人の話は熱心に聞くけど、自分の考えや感情は表に出さない。そして時々見せる、諦観にも似た憂いの表情。そんなのが、恭二の印象に残っている市郎の姿だ。
 そんな市郎が、気さくに話しかけてくる。
 この変化の契機は、間違いなく、“黒”の反逆であろう。
 恭二自身は――というより、宮垣家自体が、この件に関与しなかった。分家頭である父の和成が、宮垣の保身のために病と偽って距離を置いていたのだ。
 経緯も結末もわからない。が、長老会議の崩壊と分家衆の離散という事実からおおよそ推測できる。
 それが、市郎を今のように変えた――むしろ、本来の姿に立ち返らせるきっかけになった、ということも。
 それにしても。そう、それはわかっているが――
(市郎さん、なんでハンテン姿でうろついてるんですか……)
 ポロシャツの上にハンテンを羽織っている市郎なんて、見たことがなかった。
「構わないだろう、自宅の庭先を散歩しているだけなのだから」
 思わず背筋を伸ばす。内心を見透かされてしまった。
「いえ、別に……その」
「まるで狐を見るような眼だったぞ? ――ま、せっかくの客人を虐めるのはこれくらいにしよう」
 おどける市郎を、本人にはばれないように窺う。本当に、別人のようだ。
「誰か――ああ、白華。客人だ。荷物を運んであげて。約束の時間まで、しばらく彼と散歩しているよ」
 玄関で市郎が呼ぶと、ひとりの犬神が出てきた。恭二にも見覚えがある。
「お久しぶりでございます、恭二様」
 恭しく礼をするなり、白華は恭二の荷物を受け取った。きびきびとした彼女の様子に、辞退する暇もない。
「久しぶりです、白華さん。すみません」
 荷物は半ば奪われるように持っていかれてしまった。
「さて、恭二君。僕はこのあと人と会わないといけないけど、それまで、ちょっと散歩でもしようか。積もる話もある」
 恭二に断る理由はなかった。



「折角尋ねてくれたところを、悪いね。ゆっくりとできなくて」
「いっいえ」
 例の一件の後から十分に手入れがされていないのだろう、上屋敷の庭はすっかり枯れた雰囲気になっていた。庭師が偏執的に造り上げていた日本庭園には、落ち葉と枯れ草が散乱している。
 すっかり変わった上屋敷と、少しだけ変わった市郎。
 知らない場所に迷い込んだような感覚を覚え、恭二は何だか居心地が悪くなってきた。
「荷物が多かったようだが」
「はいっ!?」
 反射で大きな声が出てしまう。市郎が苦笑している。
「荷物が多かったようだけど、今日は泊まっていくのだろう?」
「いえ、その……実は、市郎さんに折り入ってお願いがありまして」
 いつまでもうろたえていられない。徒歩で山奥の上屋敷まで来たのは、思い出話をする為だけではない。
「家出かい?」
 市郎の言葉に、恭二は思わず足を止める。
「……その通りです」
 恭二に合わせて足を止め、こちらに振り返っていた市郎に気まずく返事をする。
「だが、単なる家出ではないね。宮垣の御仁は相当な“たぬき”だから、恭二君の家出をみすみす許容しない。かといって人質に出すほど宮代的でもない。さて――」
 見たこともない、いたずらっ子のような表情。
「どんな口上を聞かせてくれるのかな?」
 観念して、正直に話すことにした。
「……父は、宮代から独立するつもりです。でも、自分は、市郎さんと縁を切るべきじゃないと思ったんです。市郎さんなら、きっと宮代を立て直すから。いや、本当は」
 一つ、深呼吸をする。
「本当は、市郎さんが宮代を変えるのが見たいだけです。それを見るのは、俺が宮垣の一員として兄さんを支えていくのに、きっと必要になると思って……」
 そこで言葉が途切れる。道中、散々台詞を考えてきたはずだったのに、結局は青臭い本音を言うことしかできなかった。
「――なら、見ていくと良い」
 少し笑って、市郎が応えた。
「特別なことをするつもりはないけれど、気が済むまで居ると良い」
 市郎が歩き出す。少し遅れて、恭二も慌てて後を追う。
「……でも、市郎さんは宮代を変えるつもりなんでしょう?」
 緊張で上ずりそうになる声を、どうにか抑えて尋ねる。
「変える、ね。厳密には違うな。今の宮代には、変えることができる何かなんて残っていない」
 今度は市郎が足を止め、振り返る。
「宮代とは、何だと思う?」
 恭二には答えが思いつかない。
「犬神に裏付けられた暴力? 歴史に裏付けられた政治への影響力? 僕はね、怨念だと思う。身内も周りの人たちも、何もかもを不幸にして力を欲しがって、結局掴んだのは、恨み、つらみ」
 市郎が何を指してそう言っているのか、さっぱりわからない。当主だからこそ知りえる何かが、そう言わせているのだろうか。
「ま、今は怨霊など消えてなくなった。僕はただ、新しい家を作るだけだ」
 市郎は柔らかく笑うと、再び歩き出した。
「市郎さんなら、できますよ」
 掛け値なしにそう言って、市郎の後に続く。
 その後姿に、いつか追いつきたい、と強く思いながら。


 自室としてあてがわれた客室も、久々の風呂場も、上屋敷は何だかんだで懐かしく感じられてしまった。
「ふう」
 風呂上りに、随分と寂しくなった屋敷を散歩する。以前はひっきりなしに女中やらとすれ違ったものだが、廊下は怖いくらいの静寂に包まれている。
「盛者必衰、かぁ……」
 いや、でも。市郎とのやり取りを思い出し、沈む気持ちを振り払う。
(きっと、市郎さんなら、これからもっと賑やかになる)
 外の空気が吸いたくなり、箱庭に出ることにした。箱庭とは本来ミニチュアのことをさすが、上屋敷では大広間と当主書斎をつなぐ回廊の中にある小さな庭園のことをさす。
 どうやら、月の綺麗な夜のようだ。回廊に繋がる廊下にまで、月明かりが差している。
「あっ……」
 他の庭園はともかく、箱庭は良く手入れがされていた。しかし驚いて声を詰まらせたのは、そのためではない。
「あらま、見ない顔ねぇ?」
 先客がいた。箱庭に下りる階段に腰掛ける、浴衣姿の女性。
 清純な瑞々しさも感じさせるが、大人の雰囲気も漂う、不思議なひとだ。波打つ栗色の髪に淡い月の光が照らされ、その雰囲気を一層引き立てる。
 女性の空気にのまれ、立ち尽くしていると、女性は自らの傍らを少し空け、
「まあ、お座りなさいな。少し、お話しましょう?」
 ぽんぽん、と、傍らを軽くはたいた。
「……失礼します」
 断るのもなんとなく悪い気がし、勧められるままに座る。
「月が綺麗ねえ」
 柔らかく微笑微笑みかけてくる女性に、適当に相槌を打つ。
(何だろう……違和感?)
 この女性の雰囲気が、どうにもひっかかる。何が、と問われても返答に困ってしまうのだが。
 そもそも、女性から漂う花の蜜のような香りが、何かをこっそりと狂わせているようでならない。
(落ち着いて……今、上屋敷にいる可能性があるのは市郎さんと犬神たちだけで、でも、このひとは明らかに犬神ではない……)
「どうしたの、難しい顔しちゃって?」
 にわかに、香りが強くなった。反射的にのけぞる。
「美人を隣に置いておいて、考えごと?」
 女性が覗きこんでいた。追いかけるように身を乗り出してきたので、箱庭全体に充満しているのではないか、と錯覚するほど、肺が香りで満たされる。
「いっいえ、違います!」
「ふうん、じゃあ、なにをぼおっとしてたのかなぁ?」
 更に顔を近づける。
 緩く波打つ髪が、彼女の頬を流れて鼻先をくすぐってくる。
 白い頬といたずらな輝きが踊る瞳を前に、冷静に受け答えができるはずもない。
「ふふっ、かぁいい反応」
 女性は彼の鼻先をちょんと押して身を引いた。
「……あんまりからかわないでください。その、女性には慣れていなくて……」
 必要以上に血液を運びだした心臓を押さえ、どうにかそれだけを搾り出した。
「あらま、まさか女を知らないの? 宮代の男子が、ねぇ……」
 彼の言葉に反応した女性が、底意地悪く聞き返してきた。
「いや、俺、いや自分は、次男ですし、学校は男子校でしたし、うちの家はそういうのに厳しくって」
「いやあねえ、そんなにうろたえたら、ボクはドウテイでーす、っていってるものよぉ?」
 良い獲物を見つけた、といわんばかりに挑発的な言葉を投げかける女性。
 反論しようにも、どうしようもなく頬に血が集まるのを感じてしまう。



 女性の追及はなおも続く。
「でも、女の子に興味は、もちろんあるんでしょう?」
 再度身を乗り出す。今度は彼の太股に手をつき、身体ごとすり寄せるように。
「……それは、もちろん」
「だよねぇ?」
 さらに身を乗り出す。むしろ、覆いかぶさっているといっても過言ではない。
「ちょ、ちょっと、近すぎですっ」
 逃げようにも、既に下半身に乗られてしまっている。女性を力任せに振り払うわけにもいかず、
「えい」
 そのまま、押し倒されてしまった。
「な、何をする気ですか……」
 緊張のあまり声がかすれる。
「あら、何をされる気なのかなぁ?」
 完全に馬乗りになった彼女は、つつ、と人差し指で彼の腹部を撫で上げる。
「しょ、初対面の人に、こんなこと」
「だから、どんなこと?」
 彼女の指は胸の先端を触れ――る前に、恭二に捕まえられた。
「あらま、理性の強いこと」
 目を丸くした女性が、少し呆れたように呟く。
「分家とはいえ、自分も宮代の男です。見ず知らずの女性とみだりに関係を持つのは」
「みだりに関係を持つのが、宮代の男ではなくて?」
 さえぎってきた女性の問いには答えず、上半身を起こす。
「今はともかく、本来の宮代はそうであり、自分はそうありたいのです」
 努めて冷淡に突き放す――が、内心は甘い香りが直接脳を侵しているのでは、と思うほど眩暈にも似た陶酔感に揺れている。
「さあ、どいてください。こんなことはもう――」
「金城、耀(きんじょう、よう)」
 彼女を押しのけようとした手が、今度は逆に捕まえられた。
「名前。金色の城に、かがやかしい、って言う意味の、耀。派手でしょう?」
 捕まえられた指に、彼女の指が絡められる。細くしなやかな感触に、逃れることができない。
「あなたのなまえ、教えてもらえるかしら?」
 もう片方の手を添えながら、潤んだ瞳で見上げられる。
 感覚が、彼女の香りと、長いまつげと、上気した頬の緋色でいっぱいになる。
「……恭二です。宮垣、恭二」
「きょうじ、くん」
「は、はい」
 間の抜けた返事に、耀は花がほころぶように微笑んだ。
「これで、見ず知らずの間柄ではなくなったわね?」
 掴まれた手に、頬を寄せてくる。ほんのりと、あたたかい。
「ふふっ、いまどき珍しいほど、まっすぐなひとね」
 ゆっくりと、身体を預けてくる。再度押し倒されることはなかったが、完全に耀を胸の中に納める形になってしまった。
「すてきなひと」
 音もない衝撃。彼女の顔が遠ざかってから、口づけされたことを理解した。
「満月のせいかしら。へんに興奮してる」
 熱っぽい吐息を漏らしながら、掴んだままの手を自らの胸に押し当ててくる。浴衣の薄い生地の下、柔らかな感触、その奥に、確かに鼓動を感じる。
「お願い、きみに、鎮めてもらいたいな」
 瞳を閉じ、ゆっくりと耀の唇が近づいてくる。
 桜色の唇。それしか見えない。
「んっ」
 どちらともつかない、鼻から抜ける吐息の後、唇が重なった。
 先ほどの掠めるような口付けではない。耀の舌が、するりと入ってくる。
「ん、んんぅ……」
 息苦しくなって呻き声が漏れるが、その隙を突いて、さらに奥深くまで侵入してくる。
 甘い香りと、粘膜の感触に、段々と思考が停滞していき――

 寸前に、思い切り唇を噛んだ。


 驚きの表情で耀が身体を離す。彼女の唇は口紅ではない赤に染まっている。
「あんた……狐だろ?」
 荒い息を吐く恭二。口元からは血が流れ、顎へと伝っている。
「なんか、おかしいと思ったんだ。どんどん視野が狭くなってくっていうか、思考が誘導されてるような感じがした。女の色香、って言うレベルじゃない」
 口元を拭う。我ながら、結構深く噛んだものだ、と感心してしまう。しかしこの痛覚と血の味が、甘ったるい彼女の香りを一掃してくれた。
「へえぇ、ばれちゃうとは、思わなかったわぁ?」
 耀が微笑んで髪を揺らす。すると、三角の耳がぴょこん、と飛び出す。
「そう、あたくしは狐」
 先ほどの可憐な微笑と同一人物とは思えない、いやらしい笑みでそう宣言すると、力任せに恭二を押し倒す。
「やっ……やめろ。狐が、宮代の屋敷から生きて帰れると思うのか」
 妖狐と宮代は不倶戴天の敵である。その宮代の屋敷で妖狐が狼藉を働いて、ただで済むはずがない。
「俺が大声を出したら、あんたは終わりだ」
 最大の切り札を、自信を持って切った。はずだったが――
「ふうん?」
 耀は全く意に介しない。
「あんたがどれだけの力自慢か知らないけど、何十もの犬神相手に――」
「あらあら、すぐに荒事にことを持っていく。宮代はこれだからいやなのよねぇ」
 精一杯凄むが、文字通り暖簾に腕押し。
「……自業自得だからな」
 力ずくで叩き出すしかない。自分の力でそれができないのは悔やまれるが、仕方ない。
 助けを求めるべく、肺を空気で満たす。が――
「狐に迫られてボッキしてる」
 吐き出すべき息が、喉で詰まってしまう。
「――そんなの見られちゃうなんて、確かに自業自得ねぇ?」
 行き場のない怒気が胸を渦巻く。いたぶるように見上げる耀に対して、ではなく、はちきれんばかりに充血している自分に気付いたからだ。
「貴様……」
「やぁん、そんな目で見ないでほしいわぁ?」
 言葉とは裏腹に、耀の瞳は爛々と輝いている。
「余計、いたぶりたくなってしまいますもの」
 そういうなり、血まみれの唇に再度吸い付いてきた。
「んーっ、んんぅっ!」
 屈辱と激痛に身を捩じらせるが、どんなに力を入れても耀はびくともしない。
 気がつかないうちに、マウントポジションを取られていた。しかも耀の押さえ込みは巧みだ。抵抗する恭二に合わせて重心をずらし、まるで暴れ馬をいなすように捌かれてしまう。
 顔を背けようにも一瞬で気取られ、後頭部をしっかと固定されてしまう始末。
「ぷは。もう……元気なのはここだけでよろしいのに」
 唇を離した耀は、にたにた、としか形容の仕様がない笑いを浮かべ、下半身へと手を伸ばす。
「やめろっ!?」
 逃げる暇もない。夜着のズボンから侵入してきた彼女の手に、あっさりと捕まってしまう。
「うぅ……」
「んふふっ、大事なトコロを握られちゃったら、下手に暴れられないよね?」
 彼女の細い指が、敏感な先端をゆっくりと撫ぜ始める。
「大丈夫、びっくりするくらい、きもちよくしてあげる」



 箱庭が熱の籠った吐息で満たされる。
 恭二は、ただひたすら身を硬くして耐え忍ぶ。その様子を目を細めて眺めながら、耀は間断なく責め続ける。
「ねえ、きょーじくん」
 耀が、額が触れるまで顔を近づけ、呼びかける。
「きょーじ、くん」
 彼女の指の動きが、若干緩む。恭二は仕方なく瞳を開いた。
「こんなに頑張るとは思わなかったわ、きょーじくん。音を上げて、おねだりしてくるかと思ったけど」
 いつ暴発してもおかしくないが、絶妙な力加減がそれを防いでくる。
「でも、つらいでしょう、くるしいでしょう? もう、我慢しなくてもいいのよ?」
 優しく、諭すように語りかける。
「一言、きょーじくんが一言でもお願いすれば、ちゃんときもちよくしてあげる」
 きっと、本当に一言でも言ったら、苦役のような快楽は180度反転するだろう。とてもとても、きもちよくなるだろう。でも、それでも。
「……宮代は、狐に屈しない」
 心のどこかで後悔の悲鳴が上がるが、それでも恭二は言い切った。
「そう――」
 だからといって、身体には反抗できるほど余裕はない。やけに嬉しそうな耀が手を抜いてゆっくりと体勢を変えたが、そんな好機にも何もできない。
「ほんとに、あたくしを悦ばせるのがじょうずなコねえ?」
 ズボンをずり下げ、膨れきったもの外気にさらす耀。先端からは蜜が溢れ、月の光に照らされて光を反射させている。
「やせ我慢が好きな男の子、好き。あたくしのために、せいぜい我慢して?」
「だ、だれがあんたのためにっ、いぃ……」
 途中で声にならなくなる。身体の芯が真っ白になるような衝撃と、制御できない腰の痙攣の後――熱く、ぬめった柔らかい感触に、目の前の狐と交わっていることに気付いた。
 同時に、彼女の中で果ててしまったことも。
「……ちくしょう」
 そう、妖狐に手篭めにされ、いいように射精してしまったのだ。情けなさとやるせなさに、自然と涙がこぼれてくる。
「んふっ、はじめてなんだから、すぐイッちゃったからって恥ずかしがることないのよ?」
 頭を撫でてくる手を振り払うが、逆に手首を掴まれてしまう。瞬間的に激昂しそうになったが、すんでのところでブレーキをかける。狐の前で駄々をこねるような真似は、それこそ宮代の恥だ。
「そうそう、その顔よ?」
 冷静さを取り戻そうとする恭二を満足そうに見下ろしながら、耀は腰を動かし始めた。
 捻りと、円運動と、上下運動が一体になった複雑な動きだ。加えられる快感は生半可なものではない。一度吐き出しても緩みもしなかったものが、あらゆる角度と方向でしごき上げられる。
「……っ、ぅっ……!」
 上半身を捻って逃げようとするが、もう片方の手も掴まれ、そのまま押さえ込まれる。身体も快楽も逃げようがない。ただ歯を食いしばって、耐えるしかない。
「ほぉら、ね、きもちいいでしょぅ? きょーじくんのペニス、大喜びで跳ねまわってるわぁ」
 妖しげな運動で責め上げながら、耀は恭二の潤んだ瞳を覗き込む。
「ヒトのカラダは、もっときもちよくなれるところが沢山あるの。お尻も、乳首も、みんなあたくしが教えてあげる」
 彼女の両手に力が込められる。
「ねぇ、素敵だとおもわない? こんなきもちいいこと、思う存分楽しめるなんて」
 快楽の炎が爛々と瞬く瞳にまっすぐ見据えられる。強烈な快感で思考が霞みはじめている恭二は、その二つの煌き以外は認識できなくなってしまった。
「きょーじくんが望むなら――その前に、もういっかいイッちゃいましょうねぇ?」
 苦笑しながら頬を撫でる彼女。恭二の意識はもう、現実世界とは違う場所に漂っている。
 ラストスパートに入る。段々と、単調だが激しい上下運動に変化し、容赦なく高みへと追い上げる。
「あぁ、――っ」
 もう我慢など効かない。あっけなく終わりを迎えた。



「ねえ、恭二くん。――」
 白む意識の中、何かを聞かれたような気がした。
 が、その問いが何であったかを確認することもできないまま、意識を手放してしまった。




 ふと気がつくと、あてがわれた客室の布団に座っていた。
 目が覚めた、というわけではない。いつから起きていたか、わからない。
「恭二様、恭二様。起きていらっしゃいますか?」
 白髪の老人が声をかけてくる。確か、朗伯(ろうはく)という名の犬神だったか。
 ぼんやりと座っているところを彼に声をかけられ、意識が現実世界に戻ってきた。そんな感じだ。
「ああ、うん……起きています」
「朝食です。ですが、調子が悪いようでしたら、何か消化の良いものを作らせて、こちらに持ってきましょうか」
 無意識に唇を――昨夜、自ら噛み切った唇を――撫でる。そこは確かに、鈍い痛みを伝えてきた。
「恭二様?」
「……だ、大丈夫ですっ。すぐに行きます」
 今度こそ覚醒した。
 大急ぎで身支度をして――夜着が昨夜着ていたものとは異なるものに変わっていたのも、昨夜の情事が夢でないことを証明している――離れへと向かった。
 離れといっても、一般的な一軒家ほどはある、屋敷と渡り廊下で繋がれた建物だ。ひと昔前に、どこぞの長老が愛人のために増築したものらしい。現在は市郎と、彼の妻である“黒”の私的スペースとして使われている。
 その離れで、市郎に朝食を呼ばれていたのだ。玄関からは白華に案内されて、ダイニングへと通される。
「おはよう、恭二君」
「……あ、はいっ。おはようございます」
 食卓には、珍しいくらいに日本的な献立が並ぶ。3人分だ。
「悪いね、うちもすっかり貧乏になったから、こんなものしか出せないけど」
「いっいえ、有難いです、本当に」
 昨晩の情事ですっかり疲労困憊してしまったので、味噌汁の柔らかな香りに堪らなくなってしまう。ただ、塩鮭は唇の傷に沁みそうだ。
「もう少し待っていてくれないか。今日はもう1人、客人がいるんだ」
「その必要はないわ」
 空耳か――と思ったが、残念ながら夢でも幻でもない。後ろに立っていたのは、紛れもなく金城耀であった。


「あ、あ、あんた……」
 飛び退って絶句していると、耀は艶やかな笑顔を向けてきた。
 昨夜とは違って、きっちりと訪問着を着込んでいる。落ち着いた赤蘇芳の色調だが、可憐な秋草に蝶が舞う、流麗な友禅だ。
「お早うございます、金城殿。……こちらの恭二とは、お知り合いで?」
「ええ、昨夜」
 柔らかく微笑んで――その笑顔が恐ろしくてしょうがない――答える耀。そもそも、なんで妖狐が宮代の当主と談笑しているのか。
「い、いち、市郎さんっ! 狐ですよ!?」
 慌てて警告するが、市郎は不思議そうな目で見てくるだけ。耀はというと、扇子で口元を隠しながら微笑している――その瞳は、明らかに捕食者の目だ。
「何だ、そこまで知ってたのか。実は金城家に、うちのスポンサーになってもらおうと――」
「そうそう、その件ですけども」
 ぱちん、と扇を閉じて市郎を遮る。
「宮代の株式会社化、誠に結構。あたらしい宮代のこれからが楽しみですわ。でも株主になるのは、今のところお断り。なぜかはご自分で考えてくださいな?」
 先程までの穏やかな様子とは一変し、はっきりとした口調で流れるように言い終える。
「い、市郎さん、何の話を……」
「もうちょっと煮詰まってから明かそうと思っていたんだが……要は、山中一族にスポンサーになってもらうつもりでね。話を聞いてもらおうと、一族の長である金城殿を招待したんだ」
 陸に揚げられた魚類のように、口を開閉させることしかできない。
 妖狐に金を借りるのか、とか、あの山中氏の――商売上手な妖狐の中でも、最も大きな経済力を持つ山中氏の、敏腕家長が耀だったのか、とか。問い詰めたいことは山ほどあるが。
「別に悪魔に魂を売るわけではないさ。正確には、宮代を株式会社化して、その株を買ってもらおう、って話だから。ま、今回は断られてしまったけれど」
 心中を察した市郎が苦笑しながら答え――るのを遮って、耀が何かを突き出してきた。



「金城殿?」
 何も答えない耀。市郎は彼女の人差し指と中指に挟まれていた紙切れを受け取る。
「これは……今回の話は、ご破算ということじゃ」
 驚愕の表情を浮かべる市郎を心底嬉しそうに見下ろす耀は、問いかけに答える代わりに掌を二度打った。
「はっ」
「……ここに」
 パンツスーツ姿の女性がふたり、音もなく現れた。耳とふくよかな尾が、彼女達も狐であることを明らかにしている。
「それは代金ですわ、宮代の当主どの?」
 疑問を差し挟む暇もなく、スーツのふたりに両側から拘束されてしまった。
「えっちょ、なにをっ?!」
 混乱に拍車がかかる。狐とはいえ女性相手には、強引に振り払う踏ん切りもつかない。
「このコ、もらっちゃうわね? つじつまは適当にでっちあげておいて」
 耀が突きつけたのは、小切手だった。それも、ゼロが豪勢に並べられた。
「なに言ってんだアンタッ! 市郎さん、助けてください!」
 まずい、このままでは売られてしまう。
 何とか魔の手から逃れようと身を捩るが、ふたりがかりの拘束は容易には振り切れない。
「お願いです、市郎さん……じ、じつは、昨日この狐に酷い目に」
「恭二君、今日から山中の家に出向してもらう」
「しゅっこうっ?! なにいってんすか市郎さん!!」
 懇願はあっさり無視された。
「社会勉強だよ、恭二君。君もそろそろ、宮代以外の世界を知らなければいけない。金城殿に鍛えて頂け。見聞が広がるぞ」
「をほほほっ、新しい当主どのは話がわかる」
「形式上は、まあ、派遣にしましょうか。そこらへんの細かい話は、追々」
「ご勝手に。さ、笠間(かさま)、志和(しわ)、お暇しますよ」
 当の本人を置き去りにしたまま、話は進む。このままでは本当に売られてしまう。
 市郎の力になるために苦労を惜しむつもりはなかったが、こんなかたちの苦労となると、もっとこう、色々考えたい。
「市郎さんっ、お願いです、みすてないで……」
「往生際の悪い子は嫌いじゃないわ? でも、暫くは大人しくしていなさいな」
「げふっ」
 家長の意図を敏感に察知した笠間(か志和かわからないが)に、正確無比に鳩尾を痛打される。
「さ、すみやかに運びなさいな」
「あー、金城殿、あまり手荒な真似は、派遣元としては」
 市郎の抗議に、耀は嫣然と笑うだけで何も答えず――
 呼吸困難のため、恭二の意識は暗転した。


………………


 哀れな恭二が運搬されるのを、市郎は神妙な面持ちで見送った。
「さあさ、あたくしも帰りますわ。宮代の若旦那、つぎの機会には、もっと魅力的なお話をいただけますわね?」
「はい、勉強させて頂きます」
「いいお返事。では、そのときは可愛らしい奥方さんも、ご一緒に」
 明らかに含みのある言葉を残して、耀も悠々と踵を返した。
 狐たちが退出し、離れに微妙な沈黙がおりる。市郎は腕組みをしてあさってのほうを眺め、白華は直立不動で虚空を見つめる。
 からから、と、引き戸を引く音が沈黙を破る。
 “黒”である。黒い髪を無造作に後ろでまとめ、ワイシャツにジーンズの姿で現れた。
 彼女も一言も喋ることなく、食卓に座り朝食をとりはじめた。
「あー、その、なんだ」
 ひとりが食事を進めるだけの音が響く雰囲気に、最初に音を上げたのは市郎であった。
「ああ見えても金城殿は、その、お気に入りの玩具は大事に扱うタイプだと思う」
 言い訳というにはあんまりの言葉に、“黒”はにっこり笑って応えた。
「さすが、宮代の当主どの。『らしい』発言だよ?」
「うぐっ」
 頭を抱えて突っ伏す市郎、すまし顔に戻って3人分の朝食を平らげにかかる“黒”、直立不動を崩さない白華。
 暫くは、この気まずい沈黙が晴れることはなさそうだ。




「やれやれ、耀様の趣味にも困ったもんよ」
「……お母様は、若いから」
 狐の女性ふたりがかりで担がれていた哀れな少年は、無造作に後部座席へ放り込まれた。
 一見地味な、シルバーのワゴン車だ。が、所謂“やくざ屋さん仕様”レベルの堅牢性や、さりげなく貼られたハイブリットシステムのロゴなど、下手な輸入車よりも高価な代物だ。
 そんな特別仕様車の後部座席は、全て収納され、敷布団が敷かれている。そしてその上には、胸を押さえて咳き込む恭二。――この後何が行われるかは、推して知るべし。
「はいはいふたりとも、はやく車をだして頂戴」
 訪問着の帯に手をかけながら、耀が後部座席に乗り込んでいった。
「……いいなあ、お母様」
「うぇ、志和、耀様相手に略奪愛とか、やめてよ、ホント」
「お母様と私、趣味が似てるの。無駄な抵抗されると興奮しちゃう。困っちゃうよね、笠間ちゃん」
 笠間と呼ばれたポニーテールの方が、げっそりとした表情で肩を落とす。志和と呼ばれたショートカットの方は、未練がましく閉められたドアを見つめる。
「はいはい、耀様に怒られる前に帰るよ」
「笠間ちゃん、運転お願い。オナニーする」
「はあっ?!」
 目が点の笠間を無視し、志和は助手席を陣取ってしまった。
「なんでいっつもあたしが貧乏くじを……」
 愚痴りながらも、諦めて運転席に乗り込む笠間。
「頼むから、高速とかで後ろに乱入とかしないでね。暴れないでよ?」
「大丈夫、むしろ見てるだけのほうが趣味に合う……あ、吸い付いた」
 志和は早速バックミラーを調整し、後部座席の攻防戦を鑑賞しながら始めていた。
「あっはっは……こンの変態娘め」
 乾いた笑いを漏らしながら、笠間は車を起動させる。
「マウントポジションとられた。もう時間の問題……」
「あーもー勝手にしなさいよっ」
 笠間はやけくそ気味にアクセルを踏み込んだが、モーターを併用したワゴン車は、どこまでも滑らかに車体を発進させた。