朝起きてみたら、ちょっと寝坊気味だった。ぼくは急いで温かい布団の誘惑をはねの
けて朝ごはんをつめ込むように食べ、中学に入学してからの七ヶ月間で通いなれた道を
小走りに学校へと向かう。
 通学路の坂道を上っているとき、目を前にちいさな白い綿毛のようなものが舞っていた。
雪虫だ。何かの本で読んだことがある。アブラムシみたいな小さな虫で、体を綿みたい
なもので包んでいる。風に吹かれながらしきりに羽をばたつかせているその姿は、名前
のとおり粉雪にそっくりだった。
 走るぼくの横を、白い雪虫と茶色い落ち葉が流れていく。十一月の朝は、風を切る手
がかじかむくらい冷たかった。

 学校についたぼくは、1年A組の自分のクラスに飛び込んだ。ギリギリ遅刻にはなら
ないぐらいの時間なので、もうクラスのみんなはぼく以外全員来ていた。ただその様子
が少しおかしい。もうすぐホームルームが始まるというのに、教室はがやがやと騒がし
く、みんな立ちあがって何かを話している。

「おはよう。なんかさわがしいね」

 ぼくは後ろの席に座る悪友の柴田に話しかけた。

「おう樋口か。遅かったな」
「ちょっとね。で、何かあったの?」
「ああ、それがよ、カメゾウが昨日事故って入院したらしいんだよ」
「え、本当に?」

 カメゾウというのは、ぼくらの担任で国語教師の亀山先生のことだ。

「マジマジ、そんで今日からカメゾウのかわりに別の先生が来るんだと」
「へえ、それって学校の外の人?」
「なんか女子の誰かがそんなこといってたな。女の先生らしいぞ」

 柴田がにひひ、と笑った。

「むさいカメゾウのかわりに女の先生だからな。おれとしちゃカメゾウにはいつまでも
入院しててほしいぜ」
「ばか、まだ顔も見てないのにそんなこといってもしょうがないだろ」
「だけどさ、こういうときに女教師っていったら、やっぱ美人って気がするじゃんか」
「そうかなぁ」
「そうだよ。お前も一度、女教師もののエロビデオとか見てみろって。すげえぞ」
「……そんなにすごいの?」
「おうよ。この前、アニキのパソコンいじってたら見つけてさ。ほんとすげえんだぜ。
オッパイなんかめちゃくちゃデカくてさ」
「そ、そう……」

 ちょっとうらやましい。ぼくには兄弟とかがいないから、エッチな本やビデオは見た
ことがない。コンビニの前を通ったときなんか、雑誌の表紙に出てる女の人のおっぱい
が気になったりはするけど、それを買って読む勇気はなかった。

「先生来たよ。みんな静かにして!」

 クラス委員が叫んだ。みんな急いで自分の席に戻る。イスを引くガタガタという音が
ちょうどおさまったころ、教室のドアがガラリと開いた。
 入ってきたのは若い女の先生だった。それも本当に柴田のいったとおり美人だったの
で、ぼくはちょっと驚いた。後ろの席の柴田がぼくの肩をつついた。ふりかえると、な
んだかいやらしい顔で笑っている。たぶん、「な、いったとおりだろ?」とでもいいた
いんだろう。

「はじめまして。入院なさった亀山教諭のかわりに、みなさんの担任をつとめさせても
らう白川由紀子と申します」

 先生はそういって、黒板にとってもきれいな字で自分の名前を書いた。

「1年A組のみなさんとは短い間ですが、仲良くしていきたいと思いますので、よろし
くお願いします」

 白川先生はぺこりと軽く頭を下げた。するとみんなの間から拍手がおこった。特に男子
は熱心に手を叩いている。

「ありがとう。それではみなさん、何か質問はありますか?」

 先生が質問の時間を取ると、いっせいに声が上がった。

「先生はいま彼氏はいるんですか?」
「どこに住んでるんですか?」
「メールのアドレス教えてください!」

 先生はそれらの質問に「彼氏はいまいない」とか、「山の方に住んでいる」とか、「校則
で携帯は持ち込み不可でしょ」とか、いちいち丁寧に答えていた。
 ひととおり質問に答えたところで、

「そろそろ一時限目の授業だから、またあとにしましょう」

そういって、先生は教室を出て行った。


 ホームルームと一時間目の授業の間にある短い休み時間になると、柴田がまた話しか
けてきた。

「な、な! いったとおり美人だっただろ」

 柴田が想像と全く同じセリフをいうので、ぼくはなんだかおかしくなる。

「そうだね、すごくきれいな人だった」
「マジはんぱねえよな! スタイルも顔も良しであのスーツも似合ってるし、やさしい
し、おまけにメガネだぜ! もう理想の女教師そのまんまだぜ!」

 テンションが上がってしゃべりまくる柴田の言葉にあいづちを打っていると、横から声
をかけられた。

「樋口君、これ」
「え? あ、なに」

 隣の席の江藤さんだった。手に持った学級日誌をぼくに向けて突き出している。

「樋口君、きょう日直だったのに忘れてたでしょ。遅かったから私が取っといてあげたよ」
「あ、そうだった。ごめん、ありがとう」

 学級日誌はその日にあったことや授業の感想などを日直が書いて、先生に見せてハンコ
をもらう決まりになっている。そういえば、今日は自分が日直だったのに職員室まで取り
に行くのを忘れていた。
 授業が始まったので、学級日誌は机の中に放り込んでおく。眠気を抑えながら一時間
目の授業を受けている時にふと、この学級日誌はやっぱり白川先生に見せるべきなんだ
ろうか、と思った。だからなんだ、というようなことなのだけれど、なぜだかそのこと
が妙に気になって、授業にさらに身が入らなくなった。
 ぼくはその日の学級日誌を、できる限りきれいな字で書けるように、何度も何度も書き
直すことになった。


 結局、納得がいくまで学級日誌を書きなおしていたら、帰りのホームルームが終わる
までかかってしまった。ホームルームの間、白川先生はクラスのみんなに囲まれていて
なんとなく渡しにくかったので、ぼくはみんなが帰って先生が職員室に戻ろうとしたと
ころを見はからって話しかけた。

「先生、日直ですが学級日誌を書いてきました」
「えっ? ああ、ありがとう。ええと、何君だったっけ?」
「樋口です。樋口勇樹」
「樋口君ね、憶えたわ。悪いんだけど、ハンコ忘れちゃったから職員室まで一緒に来て
くれる?」
「わかりました、おともします」
「ふふ、ありがと」

 先生について職員室に入る。いつもはたいてい他の先生が一人はいる職員室だったけ
ど、なぜかこの時は誰もいなかった。
 白川先生の机は窓際にあったが、他の先生のに比べるとほとんど何も置いていないの
がよくわかった。

「殺風景でしょ。私は非常勤講師だから、こういうのが当たり前なんだけどね」

 先生は軽い引出しを開けると、中からハンコと朱肉を取り出した。

「じゃ、見せてもらうわね」

 ぼくの手から学級日誌をうけとると、先生は椅子に座って読み始めた。
 先生が読んでいる間、ぼくは先生の顔をじっと見ていた。間近でみると、先生はやっ
ぱり美人だった。肌なんか雪みたいに白いし、鼻も目もすごく形がいい。メガネをかけ
ているので先生っぽい感じだけど、それがなかったらモデルっていっても十分通用する
と思う。スタイルだってバツグンにいい。
 なんだかすごくかっこいい感じの女の人なんだけど、さっきぼくに向けてくれた笑顔
はとっても優しかった。

「へえ、樋口君って字きれいなのね」
「あ、ありがとうございます」
「よかったね、字がきれいな男の人はモテるよ」
「そうなんですか?」
「うん、本当」

 先生が日誌を閉じた。ぼくはあわてて先生を見つめていた視線を外して、窓の外に向
けた。ずっと顔を見ていたと知られたくなかったし、なんだか目を合わせるのが恥ずか
しくなったのだ。

「とっても良く書けてたと思うよ」
「は、はい」
「あら、樋口君たら何を見てるの?」

 先生がぼくの視線をたどって窓に目を向けた。

「ああ、雪虫が飛んでるのね」
「え?」

 確かに、窓の外にはぼくが朝見たのと同じように雪虫がふわふわと飛んでいた。

「雪虫は冬の訪れを告げる虫だもの、気になるよね。樋口君は、季節感とか大事にする方?」
「え、ええと……それなりには」
「そう? やっぱり男の子でも、風情とか季節感は大事にするべきだと思うよ」

 先生はそういって微笑んだ。

「そういえば、樋口君はなんで雪虫がこの季節だけ飛ぶか知ってる?」
「いいえ、知らないです」
「雪虫はね、普段は植物の上で暮らして、雌だけでこどもを作るの。だけど、冬を越す
ためには雄と交尾して卵を産まなくちゃならない。だから、冬の前になると交尾の相手
を探すためにああやって飛び回るのよ」
「へえ、そうなんですか」
「そう。だから雪虫がこの季節にまとう白い綿毛は、彼女たちの花嫁衣装なのよ」

 なるほど、そう思えばこの雪虫が飛び交う風景も、なんだかとてもロマンチックなも
のに思えてきた。

「先生は物知りですね」
「これでも教師の端くれだからね。さて、引きとめちゃって悪かったわね。もうそろそ
ろ暗くなってくるから、その前に家に帰ったらどうかしら」

 先生にうながされて、ぼくは家路についた。日が落ちかけた帰り道でも、相変わらず
雪虫は盛んに飛んでいた。

 その夜、ぼくは夢を見た。
 夢には白川先生が出てきた。しかもなぜか純白のウェディングドレスを着て。そして
先生とぼくは向かい合って、緑のしたたるような夏の森の中に立っているのだ。
 ぼくが「似合ってますよ」というと、先生は微笑んで何かをいった。そのとき、突然
冷たい北風が吹いた。森の木々の葉が色づき、枯れ、落ち葉になって舞い降りた。その
積み重なった落ち葉には銀色の霜が降りる。森は一気に冬になった。
 北風はぼくと先生にも吹きつけた。ぼくの目の前で、先生のドレスが風にたなびいた。
すると、白いドレスはたくさんの雪虫にかわった。雪虫たちは風にのってどんどん飛ん
でいき、先生の着ているドレスはどんどん小さくなっていった。そしてついに、先生は
一糸まとわぬ生まれたままの姿になった。先生のおっぱいも何もかも丸見えだ。
 ぼくは先生がすっ裸になったので慌てたが、先生は全く気にしないように相変わらず
微笑んでいる。そしてぼくの方に歩み寄ってきた。
 気がつくと、ぼくも裸になっていた。
 先生は裸になったぼくのすぐそばまで近寄ると、ぼくの顔に手をそえ、そして少しか
がんでキスをした。大人のキスだった。ぼくらはお互いに舌を入れたり入れられたりし
て、存分に舌をからませ合った。
 ぼくがなんだか切ない気分になって先生の背中に手を回すと、先生もぼくを抱き返し
てくれる。先生のおっぱいがぼくの胸や顔に当たって、すごく気持ちがいい。
 キスをしながら、ふたりで体を触りあう。ぼくは先生のお尻やおっぱいをさわったし、
先生はぼくの背中や胸をさわった。
 そのうち、先生の手がぼくのペニスにふれる。ぼくは恥ずかしくなって、やめてくだ
さいといったけど、先生は気にせずぼくのそこをなでまわした。だんだんと気持ちよく
なってきて、そのうちぼくは抵抗を止めた。
 先生の手は、ぼくのペニスを握ったり離したり、くりくりといじったり、しごいたり
した。ぼくはどんどんどんどん気持ちよくなって、先生の体にすがりついた。さっきよ
りずっと切ない気分になって、涙がこぼれそうになる。
 ついにこらえきれなくなって涙の粒がぼくのほほを伝い落ちた。それと同時に、ぼく
のペニスがびくびくと震えだす。
 そして、ぼくは目を覚ました。

 起きてみると、まだ日の出前だった。暗い部屋の中に溜まった夜の冷気に、火照った
身体をなでられて身震いした。寒気が股間から上ってきて、パンツがじっとりと濡れて
いることに初めて気づく。
 急いでトイレに駆け込み、中を確かめた。おしっことは明らかに違う、黄ばんだ白の
粘液がパンツの内側にべったりとついていた。
 ぼくはこの日、生まれて初めて射精した。


 なんとなく後ろめたい気持ちを引きずりながらも学校へと向かう。結局早朝に目が覚
めたまま寝ることができなかったので、どうにも体がだるい。体が重ければ心も重い、
最悪の朝だった。
 今日もまた、雪虫たちがふわふわと飛んでいた。その姿に、夜見た夢を思い出す。な
ぜ、ぼくはあんないやらしい夢を見てしまったんだろう。先生に対して、あんなことを
したいなんて思ったこともないのに。もしかしたら、ぼくは自分で思ってるよりずっと
エッチで、誰でもいいから女の人の裸を見たいと心の奥で考えているのだろうか?
 だとしても、先生にあんなことをさせてしまうなんて、人間として最悪だと思う。も
しあの夢の内容を先生に知られたら、きっと軽蔑されるだろう。二度と口をきいてくれ
ないかもしれない。せっかく昨日は二人きりで話せたのに。
 学校についてからも、ぼくの気は晴れなかった、後ろから柴田が話しかけてきたとき
も適当な返事しかしなかった。初めてみた自分の精液と、洗ってベッドの後ろに隠して
干したパンツと、夜に見た夢と、白川先生のことばかりが頭の中でぐるぐると回ってい
た。
 今日はホームルームの他に国語も白川先生の授業だった。先生は昨日ぼくに雪虫の話
をしたときのように、おだやかに優しく教科書の内容を解説した。それがとてもわかり
やすくて、しかも面白かったので、みんなは昨日よりずっと先生のことが好きになった
ようだ。柴田にいたっては「カメゾウには一生入院しててもらおうぜ!」なんてことま
でいったが、下手をすると男子はおろか女子までその意見に賛成しそうな勢いだ。
 だけど、先生の人気が上がるたびに、ぼくはますます気持が落ち込んでいく。こんな
人気者の先生を、ぼくは夢の中で汚してしまったのだ。それも、まるで先生がいやらし
い人みたいにぼくの恥ずかしいところをまさぐる夢で。本当は絶対にそんなことをしな
いだろう先生に、夢の中とはいえあんなことをさせてしまったことが、今更ながらもの
すごく罪深いことに思えてくる。

「おい樋口。お前、今日なんか変じゃね。体調でも悪いのか?」
「ほんと、顔色も悪いみたいだよ。保健室行く?」

 ぼくの様子が気になったのか、柴田と江藤さんが声をかけてくれた。

「そんなことないよ。心配しないで」
「そうか? それならいいけどよ」
「でも、絶対に無理はしない方がいいよ。やっぱり念のため保健室いこうよ。ひょっと
したら風邪のひき始めかも」
「なんだ、江藤はずいぶん過保護だな。本人がいいっていってるんだからいいじゃんか」
「そういうわけにもいかないでしょ。私、保健委員だし。それより、今日は柴田が日直
でしょ。ちゃんと日誌書いてる?」
「あ、忘れてたわ」
「もう、ちゃんとやってよ」
「いいじゃん、あんなのやってもやらなくてもどっちでも良くね? っていうか、お前
は樋口のためには日誌わざわざ持ってきてやるのに、俺にはただ注意するだけなのな」
「そんなのたまたまでしょ。それより、あんたは早く日誌取りに行きなさいよ。私は樋口
を保健室につれてくから」
「い、いいよ保健室なんていかなくても」
「あ~ひでえ、江藤が俺を差別する~。樋口には優しいのに俺には冷たい~。あれか、
江藤は樋口に気があるんだな。樋口にはいい奴って思われたいんだ。だからそうやって
差別するんだ。きったね~」
「ば、馬鹿いわないでよ! そんなわけないじゃない。だいたい、そういうこと大声で
いわないでよ。恥ずかしいじゃないのこのばかヘンタイ最低男!」
「そ~やってむきになって否定すんのがよけいあやし~。やっぱ樋口が好きなんだ。顔
がいいから好きなんだ。それ以外の男なんかゴミだと思ってるんだ。マジ最悪~」


 二人が横で言い争っているのを聞きつつ、ぼくはまた自分の犯した罪の大きさについ
て思いをはせた。二人がケンカを止めるころには、ぼくは自分が一回死んでミジンコに
生まれ変わったあとメダカに食われてもう一回死んでついでにウンコになるべきである、
という結論に達した。
 そのころには本当にぼくの顔は土気色になっていたらしく、結局午後は保健室で寝て
いるはめになった。やっぱり、先にパンツをはき替えてから洗濯するべきだったかもし
れない。


 それから、一週間がすぎ、二週間がすぎ、季節はどんどん冬へとうつろっていった。
日はますます短くなり、朝夕には息が白く見えるようになった。あたりを飛んでいる雪虫
の数もだんだんと減っているようだった。
 十二月に入るころには、白川先生は学校中の人気者になっていた。美人で優しい先生
だから当然ではあるけれど。先生は女子生徒と一緒にお弁当を食べ、男子生徒から冗談
まじりのラブレターを受け取り、そしてきれいな字ときれいな声で授業をした。先生の
周りには常に誰かがいて、その人数はだんだん増えているようだった。中には他のクラス
からわざわざやってきている生徒もいた。
 ぼくはそうやって他の人と笑い合う先生を見るたび、むしゃくしゃするような悲しい
ような、そんなもやもやとしたよくわからない気持ちにさせられた。ぼくも一緒になっ
て先生とおしゃべりしたいような気もするし、それが怖いような気もする。自分でもど
うしたいのかわからないまま、先生ともう一度話すこともしないまま、時間だけがすぎ
ていく。

「亀山教諭が明後日から復帰なされるそうなので、私は明日でみなさんとお別れです。
みなさんと離れるのは残念ですが、残りの時間をなるべく良いものにしていきましょう」

 白川先生がそういったのは、学校のプールに初氷が張ったころだ。
 先生の言葉に、みんなの間から「ええ~」っという不満の声が上がった。大勢の女子
と数人の男子がかなり真剣に引きとめるようなことをいったが、それでどうにかなると
いうものでもない。
 そこでせめて別れを惜しむために、翌日の放課後にお別れ会をすることになった。ク
ラスの仲間内で勝手に決めたことだから強制参加ではないけれど、結局全員参加するよ
うだった。

「カメゾウはほんとに空気読めてねーよな。ところで、お前も明日は参加すんの?」

 柴田がぼくにきいてきた。

「ああ、うん。そのつもり」
「だよな~。はあ、なんとかして今のうちにケータイのメルアド教えてもらわねーと」
「それより、明日のお別れ会のためにジュースとかお菓子買いに行かないと。カンパで
払うから、二人も参加するならお金出してよ」

 江藤さんにいわれて、ぼくと柴田は財布を出した。

「ところで樋口君て、白川先生となんかあったの?」
「えっ、そんなことないけど、どうして?」
「だって樋口君て、先生とあんまり話してないようだったじゃない。みんなでおしゃべ
りしてる時も無反応だったし」
「ぐ、偶然だよそんなの」
「そう……。でも明日はせっかくの先生を送る会だから、なるべく楽しい雰囲気になる
ように樋口君も努力してね。柴田はふざけすぎたり失礼なこといわないように」
「う、うんわかった」
「へいへい、俺ってほんとに信用ないのな」

 次の日の放課後、ぼくらと先生は教室に居残り、ささやかなお別れ会を始めた。
 用意されたのはジュースと紙コップ、それにスナック菓子くらいだったけど、みんな
はなるべく楽しい会になるようちょっとしたゲームをしたりして盛り上げた。中学生に
しては子どもっぽいゲームだったけど、それでもやっているうちにみんな熱中し始める。
教室の中に明るい雰囲気が満ち、空気は春のように暖かくなった。
 白川先生はぼくらと一緒になってゲームをして、プレゼントを受け取り、そして全員
とおしゃべりをした。ぼくも少しだけど、久しぶりに先生と話をした。
 先生はお別れ会の間中、ぼくらと一緒になって笑っていた。ゲームで勝ったり負けた
りするたびに、表情がころころ変わる。柴田が提案した王様ゲームに真っ先に賛成した
のは意外なことに先生で、王様になった江藤さんが柴田にお笑い芸人のものまねをさせ
る様子を見て大笑いしていた。
 ぼくはそんな先生の姿を見るたびに、なんだかとても切なくなってしまう。もう今日
で先生に会えなくなってしまうのだ、と思うたびに胸が苦しくなる。実際、ぼくが見せ
た笑いは半分以上が作り笑いで、おいしいはずのお菓子やジュースもほとんど味を覚え
ていなかった。
 いったい、ぼくはどうしたいのだろう。先生と一緒にいたいと思っているのか、それ
とも謝りたいと思っているのか、自分でもよくわからない。ただなんとなく、このまま
会が終わってしまったら、自分がとても後悔するだろうということだけがわかっていた。

 だけど、いつまでもお別れ会が続くはずもなく、ぼくがどうしようと焦ったりぐるぐ
る考えたりしているうちに、時間切れになっていた。

「みなさん今日は楽しい思い出をありがとう。みんなのことは忘れないわ。またいつか、
機会があったら会いましょう」

 先生が最後にあいさつをした。クラスのみんなはそれに対して「お世話になりました」
と全員で感謝の言葉をいい、それでお別れ会は本当に終りになってしまった。先生とぼ
くらとで教室を片づけると、

「みなさんさようなら。もう帰り道も暗くなっているから、なるべく友達と一緒に帰る
ようにね」

と先生がいい、みんなはそれに従った。

「先生も一緒に駅まで行きませんか?」

 誰かがいった。

「ごめんなさい。私はこれから職員室で荷物をまとめなきゃいけないの」

 先生の答えに、その誰かは残念そうな声を上げ、そして自分の友達と連れ立って教室
を出て行く。教室には誰も居なくなった。ぼく以外は。

 ぼくはお別れ会の最中からずっと悩み続けていた。どうしてもこのまま帰ったらいけ
ないような気がして、動けなかった。電気も消されて真っ暗になった教室の中で、ぼく
はひとり立ちつくしていた。
 もし白川先生に何かをいいに行くなら、早くしないと先生が帰ってしまう。でも、何
をどうやって伝えたらいいのか見当がつかない。ただじりじりと時間が過ぎていくこと
に焦りがつのる。

「やっぱり残っていたのね」

 突然後ろから白川先生の声がして、ぼくはびっくりした。

「せ、先生、あの、ごめんなさいすぐ帰ります」

 ぼくは大急ぎでそういって通学カバンをつかんだ。

「別に怒ってはいないわ。最後にもう一度教室を見ておこうと思って来ただけ。それに、
なんとなく樋口君はここにいるような気が最初からしていたし」
「えっ、そうですか」
「そうよ。ところで、近くに行ってもいいかしら?」
「え、ええ、どうぞ……」

 先生は宣言したとおりぼくの近くまで歩いてきた。ぼくと先生は並んで、教室の窓か
ら見える寒々とした校庭の景色を見た。

「そういえば、樋口君とは前にも一緒に窓を見たわね」
「そうですね」
「あの時は雪虫がたくさん飛んでいたけれど、いまは見なくなってしまったわね」
「……そうですね」
「もう冬なのね。きっと、もうすぐ本物の雪が降るわ」

 先生の言葉を聞きながら、ぼくは窓をずっと見ていた。正確には、窓ガラスに映った
白川先生の姿を。
 もうすっかり日が落ち切った夜の校庭を背景に、先生とぼくの姿が並んで映っている。
窓に映った先生はぼくより背が高くて、あいかわらずの美人で、でもとても悲しげだっ
た。
 ぼくはふと、先生がこのまま夜の暗さの中に溶け込んで消えていってしまうような、
そんな気がした。

「先生は、これからどこに行くんですか?」
「私? 私は、これから人のいない場所に行くと思うわ」
「それは、どこなんですか?」
「たぶんあなたにいってもわからないと思う。とても遠いところだからね」
「そんな所にいって、先生は寂しくないんですか?」
「そうね、少し寂しいと思う。けど、しょうがないのよ。大人だから」

 大人だから――そういわれた瞬間、ぼくの目から涙がこぼれた。悲しくて切なくて、
でもどうしようもなくて。後から後から涙が流れだして止まらなかった。先生の目の前
で泣くのがとんでもなく恥ずかしかったので必死に抑えたけど、ぼくの口からはひくひ
くとしゃくりあげる声が漏れ出した。
 白川先生は突然泣き出したぼくを見ても驚かず、両手を背中にまわしてぼくをぎゅっ
と抱きしめてくれた。ちょうどぼくの顔と先生のおっぱいが同じ位置にきて、ぼくの頭
はすっかり先生の胸と腕に包み込まれるようになってしまった。

「先生……せんせえ……」
「ごめんね、こんな話をしちゃって。でも、それがあなたのためだと思ったから」

 ぼくは本当に小さな子どもに戻ったかのように、先生の胸のなかで泣き続けた。その
間中、先生はぼくの頭をなで続けてくれた。そのことに安心したぼくは、震える声をな
んとか抑える。そしてようやく口を開けるようになったころ、

「ぼくは、先生について一緒に行きたいです」

といった。

「ぼく、先生と離れたくないです。お願いだから、ぼくを一緒に連れて行ってください」
「残念だけど、それは無理よ」

 当たり前だけど、ぼくがいった無茶は聞き入れてもらえなかった。すっかり胸に抱か
れた状態なので先生の顔は見えなかったけど、先生がさっきよりずっと悲しい顔をして
いるのは何となくわかった。

「たしかに私も樋口君が好きよ。私のかわいい生徒だもの。でも、それとこれとは話が
違うわ。それに、あなたには友達やご両親だっているでしょう?」
「だけど、先生、だけど……」

 ぼくはすっかり駄々っ子になって、先生に抱かれながらずっと同じ言葉を漏らし続け
た。

 やがて根負けしたように、先生が口を開いた。

「じゃあ樋口君。いまから、樋口君にだけは本当のことを話すわ。ようく聞いてね」

 ぼくが小さくうなずくと、先生はゆっくりと話し始めた。


「私の正体はね、雪虫の神様なの。厳密にいうと本当の神様じゃなくて、妖精みたいな
ものなんだけど、だいたいそんな存在。私はいつもは人には見えなくて、一匹ずつ雪虫
の中に分裂して眠っているの。だけど、雪虫が人前に現れ飛び回る時期になると目覚め
て、こうして人の姿になって見えるようになるわ。そして、雪虫たちが飛びながら交尾
の相手を探すのと同じように、私も人間の男の人の中から自分の結婚相手を探すのよ。
だけど、本当の雪が降るくらいの季節になると人間の姿を保てなくなるから、雪虫が姿
を消したら私も人間の世界にいられなくなる。だから、私とあなたとは今日で別れなく
ちゃいけないの」

 先生はぼくの頭をなでていた手を離した。

「もし、私がそういったら、あなたは信じてくれる?」

 ぼくは顔を上げて、先生の目を見た。

「じゃあ先生、もしぼくが……」
「あなたが?」

「もしぼくが先生の結婚相手になりたいっていったら、今日だけならぼくと結婚してく
れますか?」

 先生もじっとぼくの目を見た。

「樋口君は、私のいったこと信じてくれるの?」

 ぼくは目尻についた涙をぬぐってうなずいた。

「一応いっておくけれど、本当に今夜限りなのよ」
「わかってます」
「もし、あなたが途中で止めてほしいって思っても止められないのよ。だって、一年に
一度しかない機会なんですもの」
「それでいいです。絶対に後悔しませんから」
「結婚っていっても、あなたの思っているようなのとはたぶん違うわ。私は、あなたの
無知につけこんで、あなたを好きなように利用しようとしているだけかもしれない」
「かまいません。だって、本当はそうじゃないって知ってますから」
「そう……」

 先生はぼくの顔に手をそえた。

「じゃあ、私ももう我慢しないわ」

 そして少しかがんでキスをした。大人のキスだった。
 先生の舌がぼくの唇を割って口の中に入ってきた。ぼくの舌や歯ぐきやほほの裏側の
肉まで、全てなめられてしまった。自分の口の中に自分の舌以外に動くものがあるとい
うのはすごく不思議な感じだったけど、同時にそうやってなめられるのはすごく気持ち
がよかった。



「ごめんね、樋口君」

 キスが終わってぼくから口を離した先生はそういって謝ってきた。

「本当は私、前からあなたと結婚したいと思っていたわ。だってあなたみたいに可愛い子
が私のことをずっと見つめていてくれて、しかも私は男の人を探しにこの世に出てきたん
ですもの。だから、私があなたのことを好きになるのもあっという間だったわ。でも、あ
なたはそんなことをするには早すぎると思ったから、ずっと近くからあなたを見ているだ
けで我慢してたの」

 先生は、まるで熱を出した病人のように潤んだ瞳でぼくを見ていた。

「ずっと自分に言い聞かせていたわ。この子とは、そんなことをしちゃいけないんだっ
て。この子には、私よりもっと相応しい相手がいるって。こんな年頃の子どもとそんな
ことをしたら、きっとこの子の心に傷を残すことになるって。ずっとそう考え続けてき
たの。でも、あなたに見つめられるたびに、私の決心は揺らいでいた。さっきこの教室
に来た時も、本当はここに来るべきじゃないとわかっていたけれど、どうしても我慢で
きなかったのよ」 

 ぼくも先生の顔をじっと見つめた。さっきのキスのせいか、心臓がどきどきしすぎて
痛い。

「だけど、もう我慢も限界なの。あなたが私と一緒に居たいって、あなたが私のことを
信じるって、そういってくれたから」

 ぼくたち二人は自然に抱きあっていた。今度は、ぼくもしっかりと先生の体に腕をま
わして。

「先生……」
「うん、そうよ樋口君、だから」

 先生の細い腕にぎゅっと力がこもった。

「結婚しましょう、私たち。そして子どもを作るのよ」

 その言葉と同時に、ぼくらはもう一度唇を重ねた。

「んっ……ぷはっ……あ、先生……」
「あ、ん……大丈夫?」

 慣れないキスに苦しくなったぼくに、先生が心配そうに声をかけた。

「大丈夫です、ちょっと苦しかったけど、気持ちよかったです」
「そう、ならいいけど」

そして先生は悪戯っぽく笑った。