「――おっしゃ、勝ち!」
33対31。
ぎりぎりもいいとこだけど、まあ勝ちは勝ち、だ。
「ま、負けたにゃー」
がっくりと肩を落としたのは、山猫の獣人娘、山本麻耶(やまもと・まや)。
通称、海苔屋。
キャット空中三回転の天才だ。
学園長だって引っかいてみせらあ。
でもマタタビだけは勘弁な。
「何をブツブツ言ってるニャ」
麻耶が睨みつけてくる。
「いや、何も」
慌てて返事をする。
この子のネコパンチと引っかきは尋常ではないスピードだ。
「しかし、あんなところから逆転されるとは思わなかったニャ」
麻耶は恨めしげに盤の角を睨んだ。
「ふっ、奥が深いのさ、オセ──」
ぱこーん!!
見事なネコパンチがヒットして俺はひっくり返った。
「な、何しやがる?!」
「それ、言っちゃ駄目ニャ。商標登録されてるニャ。リバーシゲームと呼ぶニャ」
「そ、そうか」
この倶楽部に入ってから知ったんだが、「8×8」の盤に白と黒との駒を使って
「自分の色の駒で相手を挟んだらひっくり返して自分の色にできる」ゲームは、
リバーシゲームと言うそうで、俺の知っているオセ──
がしっ!
顔面引っかき炸裂。
「だから言っちゃ駄目ニャ!!」
「痛えよ、加減しろ、バカ」
顔を抑えて抗議する。
まあ、オセなんたらは、商品名(実際にはちょっと違うらしいけど)なんだそうだ。
まあ、そのオ……。
すっ。
麻耶が構える。
したーん、したーん。
「ね、ネコパンチの癖にフリッカージャブの準備をするな……」
……その、リバーシゲームの愛好家は多く、<学園>にもいくつも同好会がある。
そのひとつが、我が<64モーグリ倶楽部>だ。
64とは、8×8のマス目のこと。
その盤にダイブして死闘を繰り広げるからモーグリ倶楽部。
しかし、なぜかレトロなテレビゲームマニアが集まってくる。
名前の問題だろうか。
まあ、俺らのライバルの<白黒将会>は、
なぜかストリップ大好きエロ人間が集まってくるというから、まだましか。
とにかく、俺はそういう倶楽部に所属していて、
「……オセロッ…」
「わー、馬鹿バカばか!!」
がりっ!がりっ!
見事にX字に顔面を引っかかれ、悶絶する。
「……お、オセロット(山猫)娘に勝利した、と言おうと思っただけなのに……」
「紛らわしいニャっ!」
顔がチクチク痛むけど、それはまあ我慢して、俺はのんびりとした放課後を楽しんでいた。
秋の爽やかな風が開け放たれた窓から入ってくる。
遠くに聞こえる部活の声。
授業が終わった後の教室、知的な遊戯で時間を潰す。
理想的な午後。
……それは、唐突に破られた。
すぱーん!
不意に、教室のドアが、ものすごい勢いで開け放たれる。
「やはり、ここにおったかぁ!!」
「げっ!」
教室の空気が一変する。
大体にしてテーブルゲームとかを好む人間/獣人は大人しい。
俺や麻耶は体力とか運動神経とかにも結構自信があるけど、
どちらかというと、間違いなくインドア志向だ。
他のメンバーもご多聞に漏れず、倶楽部会員はみな
静かに趣味を楽しむことを至上の喜びとしている。
だけど、こいつは──。
「このような不健康なところで不健全な遊びをするものではない、と何度言ったらわかるのじゃ!
日光浴をしにプールに行くぞえ!!」
こちらの意思をまるで確認する気もなく、突撃してきた人影は怒鳴った。
「……ふざけんな、こんな寒い日に日光浴なんて正気の沙汰じゃねえ」
俺は、立ち上がってそいつに歩み寄り、視線を30センチほど下ろしながら、そう答えた。
ドアをぶち破らんばかりの勢いで入ってきたそいつは、つまり俺よりそれだけ背が低い。
尻尾だけはいっちょまえの堂々としたものを引きずっているが、
それは足りない身長の代わりにはならない。
目の前に立つと、そいつの強く睨みつける瞳が視界から失せ、
おかっぱのように切りそろえた黒の直ぐい髪だけしか見えなくなる。
「むむむ」
そいつは、顔をぐっと上に向けて、ほとんど天井を見るような角度で俺を見上げた。
「悪いな、お前と遊んでるヒマはないんだ、おチビちゃん」
「おチビと言うなあ! 張り飛ばしてでも連れて行くぞえ!」
ティティスは、大いに憤慨したようだった。
小麦色の滑らかな頬に朱が差している。
「おお、やってみろ、チビっ子星人」
「わらわは星人ではないわ、誇り高きナイルワニ獣人の女王じゃっ!」
「ああ、そうか。うん、じゃあ、な」
ティティスの肩をつかんで、くるりと回す。
身体と一緒に半回転した尻尾は、軽くジャンプしてかわす。
「じゃあ、帰った帰った」
「ちょ、やめっ、待たんかっ!!」
ティティスがぐるりと振り返ったときは、もう俺は二、三歩下がっていた。
相変わらず、トロいジャリだ。
「ちょっとぉ! 痴話喧嘩なら他でやってよねえっ!」
麻耶が、ずずっと教室の隅っこにダッシュしてから叫ぶ。
山猫獣人はこのちびっ子が苦手らしい。
なんでも「めちゃくちゃ怖い」んだそうだ。
あの運動神経の固まりがこんなトロチビ娘相手に不思議なことだけど、
まあ、ネコは水に弱いし、案外水棲生物は苦手なのかも。
だが、俺は別にこいつのことを怖いとかは感じない。
なんといっても、チビだし。
同じワニ獣人でも、これが三年の鰐淵先輩とかだったらすごい恐いけど。
<学園>屈指の美女は、ライオン獣人だろうがトラ獣人だろうが、水辺ではお話しにならない。
同級の獅子尾との喧嘩しているところを偶然目撃したことあるけど、ありゃあ、逆らわないほうが無難だ。
プールの中に引きずり込んでワンサイドゲーム。ライオン相手に、だぜ?
もっとも、猛獣の獣人もその多くはこちらから刺激しない限り、手を出してくることはない。
ましてや、獣人と純血種との揉め事はご法度だ。
純血種が、身体能力的に圧倒的に劣って勝負にならない、とか、そういう理由だけじゃない。
「男の子と女の子は仲良くすること。そうしないとつがいが見つかりません」
それは、<学園>のもっとも強力な不文律。
だから、獣人娘は、クラスメイトの純血種男子と本気で争うことはない。
誰が、自分とつがいになれる<因子>を持つ男の子なのか、分からないから。
ひょっとしたら、隣の男の子が自分に卵や子どもを産ませられる貴重な能力を持っているかもしれないから、親切にする。
男の子のほうも、美人ぞろいで、ほとんどが体力的に自分を圧倒している女の子に意地悪なんかしない。
だいたい、男というのは、自分に目の敵にさえされてなければ、たいていの女の子に好意的なのだ。
だから、<学園>の生徒は、つがいが見つかるまでの間、
放課後こうして和気藹々とクラブ活動に興じる。

ここは、<学園>、<獣人特区>。
僕の通う学校──獣人と人間の若者が<共学>する市立学園を中心にして、
人と獣人が共生するモデルタウンとして作られた街。
獣人を嫌う人間も多いけど、宇宙に飛び出して「進化の壁」にぶち当たった人間にとっては、
はるか昔に捨て去ったはずの「獣の因子」を持つ自分たちの亜種は、大きな可能性を持つ存在らしい。
宇宙開発が頓挫した世界政府は、世界中に隠れていた獣人を保護し、集結させ、
次世代の<超人類>が外宇宙への壁を打ち破ることを目指している。
<特区>と<学園>は、そのための大切なゆりかごだ。

……だが、何事にも例外と言うのはある。
俺とこのジャリ、テティティスがそのいいサンプルだ。

「――わらわの名はティティス! <ナイルの女王>じゃ!」
開口一番、そう言ったチビは、会ったその日から四六時中俺をストーキングしている。
理由は……。
「そなたは、ナイルワニの獣人と卵を作れる因子を持っておるのじゃ!」
自己紹介が終わり、クラスをぐるりと睥睨した自称<ナイルの女王>は、
俺を見つめると、たっぷり三秒間、停止した。
それからものすごい勢いで突進して、俺に飛び掛って、
「見つけたぞ、わらわの夫!! 卵を作ろう!!」とのたまった。
以来、こいつは俺の行く先行く先に現れて、楽しい高校生活の邪魔をする。
遺伝子だの<因子>だの、小難しい話は知らないが、はっきり言って迷惑だ。
「うむ。俺はこれからジュースを買いに行く。お前はどっか行け」
「な、な、な、無礼な!」
けんもほろろに言い放つと、ティティスは真っ赤になって怒った。
「うるさい。人の顔を見れば、交尾交尾とうざいんだよ」
「何を言うか、ひょうろく玉! 交尾以上に大切なものがあると思うか!?」
「とりあえず、俺は今、交尾よりジュース一本のほうに興味あるぜ」
「ぬう……、こ、この変態が!」
「なんだよ、それ」
「若いオスとメスで、交尾に興味がないなど、ド変態もいいところじゃ!
わらわが正しく性教育してつかわす!!」
「まっぴらゴメンだ!!」
俺たちはののしりあい、にらみ合った。
「むむむ、大体じゃな。そなたはもう精子が出る大人なのに、なぜわらわと交尾をせぬ?!」
むちゃくちゃな理屈だ。
だけど、発情した獣人というのは、こういうものなのかも知れない。
「素直な生殖要求」というのは、「外宇宙への挑戦」にものすごく重要な種族としての能力だそうだけど、
俺にとってはあんまり関係ない。
俺は、俺の好きな女とそういうことをしたいだけだ。
……まあ、まだそんな相手はいないが。
とりあえず、目の前で真っ赤になって恥語を連発するワニ獣人が
俺の恋の相手じゃないことは確実だ。
「……これ、聞いているか、我が背(せ)?」
「誰がお前の背中だ」
「むむ、背とは、そなたの国の古語で、夫や愛しい男を意味するのじゃ」
「……物知りだな」
「王族として、他国の伝統にも詳しくなければのう。
ましてや国際結婚をする相手の国ともなれば、精通せねばならぬ」
「国どころか、種族もちがうじゃねえか」
「ちなみに妻や愛しい女の子とは妹(いも)と呼ぶ。わらわのこともそう呼びや」
「妹萌えの趣味はねえ」
言い捨てて横を素通りしようとしたが、ティティスは両手をばっと広げて通せんぼした。
普段よりずいぶんとしつこい。
「なんだって言うんだ、いいかげんに──」
「イリエワニの鰐淵が、つがいを見つけたそうじゃ」
「へ? 鰐淵って、鰐淵先輩?」
「ええい、あの女に先輩付けなどせんでよい!」
ああ、なるほど。
合点が言った。
イリエワニと、ナイルワニは最強のワニの座を争うライバル種で、
<学園>最強のイリエワニ獣人は、ナイルワニの王女様にとっては目の上のタンコブらしい。
もっとも、鰐淵先輩のほうは、何とも思っていなさそうだが。
その一方的ライバルが、つがいを見つけたとくれば、ティティスが慌てるのも無理はない。
だが、そんなの関係ねえ。
「いいや、関係大ありじゃ! 鰐淵のつがいは一年生じゃぞ?」
「……それがどうかしたのか?」
「おぬし、一年生が先に童貞捨てたのに、何とも思わぬのか?」
「別に……?」
「なんと! わらわは一つ年上が先にまぐわいはじめたと聞いて居ても立ってもいられぬのに、
そなたと来たら、一つ年下に先を越されて二年生として平気なのかえ!?」
「わけ、わかんねーよ」
全体的に、初体験とか、つがいを見つけることに熱心なのは獣人の女生徒のほうで、
どちらかというと、純血種の男子生徒のほうはのんびりとしたものだ。
色々な本能が弱い純血種が「その気」になる前に、獣人のほうが発情してカップル発生、というのが
学園の伝統的な恋愛事情なのだが、
──俺はこいつとつがいになる気はねえ。なぜなら、
「俺んちは、もう兄貴が異種族結婚しちまったから、無理だっつーの。
俺は純血種同士でふつーに結婚するの。だから、いーかげん、諦めれ」
俺の兄貴もこの<学園>に通っていたが、
ある日、麻雀部で知り合った龍族の娘にハコテンにされ、
「負けた分、あの娘の実家の神社でバイトしてくる」と京都に行ったきり、帰ってこねえ。
そのまま相手が長女だから婿入り、という強引な展開で、今じゃ一年に一度帰ってくる程度だ。
向こうは三十人姉妹で、跡取りの弟も生まれたつーのに、
兄貴はもうこっちには帰らないつもりらしく、
おかげで親父とお袋は、俺に純血種とのごく普通の結婚を期待するようになった。
「というわけで、俺のことは諦めて、……そろそろ、あっち行け、チビワニ娘」
そっくり返った姿勢の肩をちょん、と突く。
バランスの悪いジャリはひっくり返りそうになった。
「わわっ、何をする。馬鹿者ぉ!!」
ティティスは尻尾を使い、慌てて姿勢を保とうとする。
その横を俺はさっさと通り抜けた。
「ちょっ! こら、待て、そなた! そなたに話が──」
「俺はお前に話はねえ」
「ま、待てっ 待ちゃれっ!」
大きな声だけが追いかけてくる。
うるせえ。
端から聞いたらまるで夫婦喧嘩のようだ。
恥ずかしいったらありゃしねえ。
こちらは何とも思っていないのに、まわりに「そう」思われるのは迷惑千万だ。
ティティスの慌てた声はしつこく聞こえたが、
俺は早足になってそれを振り切り、無視を決め込んだ。
どうにもあのチビはうざったい。
はっきり言って、兄貴のことがなくたって、俺はあいつと付き合うことはない。
そりゃ、顔はけっこうな美人だし、驚いたことに本当にナイルワニ獣人の<王家>の血筋だし、
黙ってさえいりゃあ、たしかに<お姫さま>だ。
追っかけまわされる俺を「据え膳を食わない」と言ってうらやましがる奴は多いようだが、
あいにく俺は、こんなチビに欲情する変態じゃねえ。
そう。
<ナイルの女王>ティティス=なんたらかんたら133世は、
「身長140センチ、体重軽い、バストぺったん、ヒップつるん」の発育不良のガキ体型だ。
入学のときに中等部どころか、小等部に案内されたという逸話もむべなるかな。
体の中で唯一立派なのは鰐獣人の証である巨大な尻尾だけ、という具合では、
グラマー好きの俺の眼中にない、っていうのも理解してくれることだろう。
実際、抱きつかれて求婚された瞬間に、俺は丁重にお断りの返事をした。
だが、あいつはあきらめない。
もともと爬虫類系の獣人と言うのは情が濃くって執念深いって噂だけど、こいつはその中でも特別製だ。
さっきみたいに、ちょっと押しただけでふらふらよろめいてしまうくらい
運動神経のないジャリの追跡を振り切るのは簡単なことだが、
血の巡りの悪いせいか、こいつは恐ろしくタフだ。
逃げても逃げても追っかけてきやがる。
ガキで、大声で、鈍い。
──俺の苦手の三大要素をすべて持ち合わせていやがる女。
それがティティスという女だった。
あんな奴の<夫>なんか、まっぴら御免だ。
俺はひとしきり小走りでティティスを引き離し、自販機の前で足を止めた。
硬貨を取り出し、ジュースを買う。
「熱血飲料か、鉄骨飲料か……?」
しばし逡巡。
「あっ……」
反射的にころころと転がる百円玉を追っかける。
銀色のコインは、小さなスニーカーに当たって止まった。
小さな白い指が、それをつまんで拾い上げる。
「はい。落し物よ」
「……へ?」
自分に百円玉を差し出す娘を、ティティスと見間違えたのは、
その少女が、あのジャリと同じくらいの背丈だからだ。
だが、俺が呆けたようにその姿を見つめたのは、あいつとは全然違う雰囲気に呑まれたから。
ティティスと同じ黒い直(す)ぐい髪は、あいつとは違う白い肌に映え、
ゴシックロリータの服装は、幼さよりも、妖しさを印象付ける。
なによりもその美貌。
顔の下半分が見えなくても、瞳だけで確信することが出来る。
下半分が見えなくても?
そう。彼女は、白い大きなマスクをつけていた。
それでも、その美貌をかくしきれない。
切れ長の、潤んだような黒い瞳に視線を合わせると、吸い込まれそうになった。
どきん、とした。
精神的にも肉体的にも成熟した女性にしか興味がないはずの俺が。
俺は、そのことに激しく動揺した。
「ふふふ、どうしたの?」
「……あ、ああ」
ようやく百円のほうに意識が行き、それを受け取る。
「じゃあ、ね」
ゴスロリ少女がくるりときびすを返したとき、雷が落ちた。
「なっなっなっ、何をしておるのじゃ!!」
金切り声に振り向くと、ティティスが顔を真っ赤にして突き進んでくるところだった。
「こ、このっ、泥棒トカゲめっ!!」
「……」
「と、トカゲ……?」
140センチ級の美少女二人に挟まれて出現した突発的修羅場空間の中、俺はただただ呆然とするしかなかった。
「ちょっ、な、なんだ、お前ら……」
俺は、突然現れたティティスが、ゴスロリ少女とにらみ合っているのに慌てた。
二人の間に流れている空気は、一触即発ってやつだ。
ティティスがこれほどまで誰かに対して険悪になるのは珍しい、というか、はじめて見る。
ティティスは、俺以外の人間からはおおむね好かれている。
「わらわはナイルの女王じゃ」とのたまう尊大なジャリは、
普通の人間がやったら鼻持ちならないのだろうが、
そこは本物の威厳と言うか、血筋と言うか、なんとなく、それが許せる雰囲気がある。
ノーブレス・オブ・リージュというやつなのか、
その態度を取るのにふさわしいだけの責任を、こいつは自然に果たしている。
猪突猛進──あ、こいつはワニか――だが、行事ごとではクラスをちゃんと引っ張っているし、
皆がやりたがらないことも、さりげなく片付けている。
それでいて、本人が底抜けの馬鹿で明るいから、ティティスが、
「わらわが一番偉いのじゃ!」ときいきい声をあげて叫んでも、
まわりのクラスメイトは苦笑して頷くだけだ。
だから、こいつが、こんなものすごい剣幕で誰かを睨みつけるような事態に遭遇したことはない。
「あら、──ナイルのお嬢ちゃん」
ゴスロリ少女は、白いマスクの下でくすりと笑った。
口元が見えないのに、におい立つような優雅な微笑みが俺の目にははっきり見えた。
ああ、ティティスとは月とすっぽんだな。
こりゃ、あれだ。
ティティスのほうは、顔を真っ赤にして
(じょ、じょ、嬢ちゃんとはなんじゃ、無礼者! わらわはナイルの女王なるぞ!)
とでも叫ぶだろうな、と思ってあいつのほうを見た俺は凍りついた。
「我が背(せ)から離れるのじゃ」
ひとことだけ、静かにことばを放った小さな人影は、
……俺の知っているジャリのものなのだろうか。
「あら、このお兄様、あなたの素敵な人?」
ゴスロリ少女は微笑みながら聞き返した。
ほんのちょびっと、絶妙にブレンドされた、からかうような調子。
男の子なら、異性のそれにコケティッシュを感じるだろうし、
女の子なら、同性のそれになにか反発するものを感じるだろう。
そんなタイミングと声音のひとこと。
だが、ティティスはそれに対して無言だった。
「……ふうん」
ゴスロリ少女が、また笑った。
「……いいのよ、ティティス。私はここではじめちゃっても……」
鈴を転がすような声。
何を「はじめる」というのだろう。
お茶会?
おままごと?
それとも何か別の、女の子らしい遊び?
その声を聞けば、誰もがそうイメージするだろう。
しかし──。
ずしっ。
校舎裏の、未舗装の土に、ティティスの上履きがめり込む。
まるで体重何百キロの巨獣のもののように、ティティスは無言で一歩踏み出した。
「ちょっ、お前、上履きのまま……」
話題を変えようとした指摘は、無視される。
ぞくり。
俺の背中に何かが走った。
いままで余裕でからかってきた少女が、まるで別物に変わったかのように。
「……お、おい……」
俺は思わず間に入ろうとした。
だが、足が動かなかった。
「……あれ?!」
足元を見る。──震えていた。
「何だ、これ……」
自分より30センチも背の低い、小さな女の子たち。
その二人のにらみ合いですくむ自分の足を、俺は呆然と見つめた。
「……下がっておれ」
「そうね。そのほうがいいわよ、お兄様」
ティティスとゴスロリ少女が、ささやくように言った。
──そう、したかった。
でも、それさえもできずに立ちすくんだとき、後ろから、声がした。
「……そこの二年生たち、さっきから……うるさい」
「!?」
二人の少女がぱっと後ずさった。
声は、校舎の裏口からした。
「わ、“鰐淵”!?」
ティティスが声を上げる。
「鰐淵先輩……」
俺は、校内最強クラスと呼ばれるイリエワニの獣人娘の名前をつぶやいた。
「……」
鰐淵先輩は、ふらふらという感じでドアから出て、まっすぐ俺たちの前を突っ切った。
ティティスと、ゴスロリ娘の前を、どこに焦点があっているのかわからない瞳が通る。
それだけで、憎悪をむき出しにしていた二人の間の空気が、流れた。
なくなったわけではない。
強いとか、弱いとか、そういうものとはまた違った、存在感。
それに流されたのだ。
無言で通り過ぎる美しい長身に。
「ぐうう……」
ライバル視している先輩を睨んで、ティティスが低くうなった。
ゴスロリ少女に背を向け、同種族の美女に挑戦的に向かい合う。
「……鰐淵ぃ~~!」
「……何?」
鰐淵先輩が振り向く。
「つ、つがいを見つけたからといって、いい気になるでないぞ。
わらわもすぐに追いついて、先に卵を産むからのう!」
言い切って腕組をし、40センチ以上も背の高い相手をにらみつけたティティスは、
──いつものティティスだ。
「……貴女、ギャグのセンスあるわ……」
鰐淵先輩は微笑んで、歩み去った。
「うぬうううううーーー!! 勝者の余裕のつもりかえぇぇ!!
つがいができたくらいで偉そうに!!」
ティティスは地団太を踏んで悔しがった。
王族の気品など、どこにもねえ。
「ええいっ、わかったか、我が背。こういうわけじゃ!!
われらも早くまぐわって、きゃっつめより早く卵を作らねばならぬ、迅(と)く、来よ!」
「どこにいくつもりだ、どこに?」
「ら、ら、<らぶほてる>とやらに、じゃ!」
「却下」
「なぜじゃああああーーー!」
まるっきり、いつもの会話。俺は、なぜかほっとした。
「……とんだ邪魔が入ったわね」
いつの間にか、ゴスロリ少女は俺の後ろに立っていた。
俺の肩越し──正確には、脇の下か?――に、ティティスを見つめる。
「貴女とは、<論争>の決着をつけなければならないわ。そのうちにね」
そして、少女は俺のほうを見て笑った。
「お兄様にも、あらためてご挨拶いたしますわ」
「貴様……!!」
ティティスが何か言おうとするよりもはやく、少女は背を向けて歩き出した。
「……っと!」
それを呆然と見送ってから、俺は我に返り、その場を走り去った。
「あ、こら、待ちゃれ!」
一人残されたティティスの声を後に残して。
──翌日。
俺は、オセ……おっと、リバーシゲームの<64モーグリ倶楽部>へと急ぐ途中、
灰斑恵那(はいぶち・えな)につかまった。
新聞部と<水辺でお昼寝倶楽部>を掛け持ちするハイエナ獣人娘は、
今日は前者の活動中らしい。
「ちょっとちょっと、あんた、ティティスと龍那の対マンに出くわしたんだって?」
誰から聞いた、そんなこと。
待てよ、龍那って、あのゴスロリ娘のことか。
「そうよ、薦戸龍那(こもど・りゅうな)。2年のコモドドラゴンの獣人娘」
……こどもドラゴン?
思わずそう聞き返してしまうくらい、ゴスロリ少女は小さかった。
「コモド! コモドオオトカゲよ。コモド島に棲む最大最強のトカゲ」
「ふうん」
ティティスと同じくらいの背丈の女の子が最大最強種の獣人と言われても、ぴんとこない。
まあ、ティティスも最大最強クラスのワニの獣人娘なのだが。
「対マンたって、ティティスが突っかかって睨みつけてただけだ。
というか、それがそんなに大事なのかよ?」
メモを取り始めた恵那を呆れて眺めながら俺は言った。
「わかってないわね、あの“龍那”とあの“ティティス”の対マンよ。
学園新聞の1面トップ物よ!!」
「そんな馬鹿な」
女子小学生と見間違うばかりの二人のにらみ合いが、読めば100日話題に困らないといわれる
学園紙のトップ記事になるとはとうてい思えない。
──俺は、昨日感じた足のすくみのことをちらっと思い出したが、それを飲み込んだ。
身についた常識の感覚というのは、めったなことではひっくり返らないものだ。
「だって、鰐淵先輩の“引退”後の“ワニのトップ”と、“トカゲのトップ”よ。
<獣王戦争>が、また復活するじゃないかもしれないじゃん!」
興奮したように叫ぶ恵那に、俺は仰天した。
「<獣王戦争>!? まだ続いてたのか、そんなもん!?」
「種」が異なる獣人たちの集う<特区>。
その中でも若くて未熟な子供たちが通う<学園>は、
ともすれば「異種族」たちの文化がぶつかり合う闘争の場と化す。
獣人と純血種、男子生徒と女子生徒は、文化以前に本能によって、
<本気の対立>が為されないが、同属同士、同性同士の争いは尽きない。

いわく、<壱年戦争>。
カラス系の獣人たちが初等部一年入学時に行うという
「誰が群れの中でリーダーなのか」を決める伝説の<クラス会長>の覇権争い。

いわく、<聖軒戦争>。
<学園>内に10軒あるラーメン系学食のどこが一番美味いのか、
それぞれのひいき客が、店とは全然関係なく争って、勝手にランキングを決めるという争い。
去年はトンコツ醤油の<風林火山軒>を推した某河馬獣人の先輩が圧倒的な腕力で勝ち進んだという。

いわく、<女難戦争>。
伝説の巫女服<マサキマキの“まとい”>をめぐって争う、プール南エリア女子寮真夜中の陰惨な戦い。
最後にその巫女服を押し付けられた女生徒は、妖怪マサキマキの呪いで、
女性にしかモテなくなり婚期を逃すという、恐ろしい事態に陥る。

その中で、もっとも危険で激しい抗争のひとつに挙げられている争いが、
ワニ系獣人とトカゲ系獣人との間の<獣王戦争>だった。
もともとは、<獣王論争>と呼ばれていたこの争いは、その名の通り、最初は論争だった。
ある伝説的なマンガの中に出てくる<獣の王>が、ワニ族なのか、トカゲ族なのか。
その論争は、やがて過熱し、爬虫類を代表する二種族間の大きな火種となった。
<ピンク色のかませワニ>と呼ばれた獣の王は、しかし、ワニの姿をしながら、
公式設定では「種族:リザードマン」とされていたからだ。
古参の読者からは「ヘタレからヒーローになった副主人公の魔術師」に次ぐ人気を博す偉大な獣王を、
どちらの種族も自分たちの眷属と見なしたがった。
初等部の子どもたちが、帰り道ではじめた言い争いが、
数百人単位の大規模闘争に発展するのに要した時間はわずか二日。
そして、その火種は今でも続いている。
「今まで、ワニ系獣人のトップはそういうことに興味がない“鰐淵”先輩だったんだけど、
あの女(ひと)、つがい作って“引退”しちゃったから」
<学園>の不文律。
「つがいを作った生徒は、揉め事に参加しない。また周囲も参加させない」
それは、子孫を残せる貴重なチャンスを見つけた同種への配慮。
純血種と獣人の間の新しい生命は、<超人類>の誕生に賭ける全人間の宝であるからだ。
鰐淵先輩は、部活で見つけた後輩とつがいになった。
それは、彼女を鰐獣人の代表的存在からの“引退”を促すことになる。
その座を追うわけではない。
<獣人の子どもたち>は、<成熟し、子孫を残す能力を持った女性>を認め、
一段高いステージに送り出すのだ。
彼女が、わずらわしい争いにかかわって卵を産むチャンスを逃さないように。
そして、鰐淵先輩が去った後、ワニ獣人の代表は、ティティスになった、というわけだ。
「なーんで、あのチビがなるかなー」
俺はつぶやいたが、まあ、獣人には獣人なりのルールがあると言う。
あんな運動神経のないチビでも、名ばかりの盟主にはなれるのだろう。
まがりなりにも、イリエワニと最強の座を争うナイルワニのお姫サマなわけだし。
「……ばっかみたい」
俺の納得を、恵那は一言のもとに否定した。
「へ?」
「あの娘、めっちゃくちゃ強いよ。マジで鰐淵先輩に紙一重。同い年だったら多分互角」
「へ???」
「“怖い”のよ、あの娘は……」
「ちょ、ちょ、あのチビが……?」
「“背丈”だ、なんだの問題じゃないの。ナイルワニの恐さは“理屈”じゃないのよ……」
新聞部の敏腕記者(自称)のことばは、俺を混乱させた。
「……でも、龍那も強いわよー。喧嘩の“技術”なら一等賞かも。
それも怪物並に“タフ”なのよ、あの娘。
獲物を何日でも追い掛け回して牛でも鹿でもスタミナ勝ちしちゃうご先祖持ってるんですもの」
「ちょ、待て、お前。あの娘が怪物並だって?」
俺は笑おうとした。
いくらなんでも、そりゃ無理があるって……。
「まあ、信じないのなら、信じなくていいわ。純血種にはあんまり関係のないことだし」
恵那は、ふくれっ面をしてそっぽを向いた。
もともと<帝都スポウツ新聞>並みに情報が怪しく、
拡大解釈と捏造については<ユウヒってる>といわれる学園新聞の記者だ。
話半分どころか、100分の一くらいに聞いておいたほうがいいだろう。
俺は、しつこく話を聞いてくるハイエナ娘をあしらって別れた。

部室のある校舎に入ろうとしたとき、
「――あら、お兄様、奇遇ね。」
後ろからかかる声。
鈴を鳴らしたかのような可憐な声は、昨日のゴスロリ少女。
薦戸龍那だ。
「あ……」
「ふふふ、昨日約束しましたわね。あらためてご挨拶するって。
──少し、そのあたりでお話しませんこと?」
そう言われて、俺は反射的に頷いた。
なぜ頷いたのかは、自分でも分からなかった。
ティティスと同じくらいの背丈とプロポーションを持つの少女は、
大人の女が好きな俺には全然魅力的でないはずなのに。
だが、現実に俺は、まるで魅入られたように、
返事も待たずにくるりと背を向けた彼女の後を追って、
学校内の<公園>地区に足を踏み入れた。
「うふふ、寒いですわね、お兄様。こういう日は、
こうして温かい缶を持って、日向ぼっこするのが一番」
たしかに、冬が秋を駆逐する季節の風は冷たい。
だが、ホットの烏龍茶の缶を両手で抱えた南国種のオオトカゲの獣人は、
ことばほどは寒そうではなかった。
「お兄様って……タメ年だろ……」
俺は、なぜかどぎまぎとして答えた。
「うふふ、同い年でも、私より背が高い男(ひと)はそう呼ぶことにしてるの」
龍那は、そう言って笑った。
白いマスク。
その下に隠されているのはどんな美貌なのだろう。
あるいは──。
(ごくり)
先ほど恵那から聞かされた話を思い出して俺はちょっと震えた。
トカゲ獣人は、ワニ獣人、ヘビ獣人と並んで爬虫類の中で「強い」ことで有名だ。
派閥として大きいだけでなく、個々の獣人が強く、しかも執念深い。
この娘(こ)も、「そう」なのだろうか。
──くすり。
ゴスロリ少女が笑った。
「気になります? このマスク」
「え……あ、いや……」
龍那は、別のことを想像したようだった。
「私、ちょっと特別な体質なので普段はこれをつけているのですが、
……お兄様には素顔見せても、いいかな?」
美貌の下半分を覆う白いマスクに繊手がかかる。
するり。
下から現れたのは──想像どおり、いやそれ以上の美貌。
獣人らしく、鋭く大き目な八重歯はあるが、
牙も生えていなければ、耳元まで裂けた口があるわけでもない。
ゴスロリにどこまでも映える、整った少女の美貌だった。
「あ……」
「うふふ、ふふふ。何だと思いました? 私の素顔」
「い、いや……」
少女にすっかりペースを握られていることに気がついたけど、どうにもならない。
くすくすと、龍那が笑う。
ティティスとは比べ物にならない、上品さと可憐さ。
心を惹かれはじめているのはそれのせいだろうか。
俺は、烏龍茶の缶を弄(もてあそ)ぶのをやめ、プルトップを引き開けた。
いい匂いが冷たい空気に溶け込む。
ゴスロリには紅茶、と思っていたが、
こうして眺めてみると、烏龍茶も貴族趣味があってお似合いだ。
まあ、缶だからどちらにせよ風情はないけど。
そんなどうでもいいことを考えたのは、視線が、
マスクを外して見えるようになった龍那の桜色の唇に吸い付いて離れないからだった。
「いやなお兄様。何をじろじろ見ているのです?」
龍那がこちらを見据えた。
「え……、あ……」
焦る俺を見て、龍那はくすりと微笑み、そして烏龍茶の缶を差し出した。
「はい」
「……え?」
「一口だけですよ?」
「ちょっ……」
「のどが渇いているのではないのですか?
私が飲んでいるのをじろじろご覧になってたのは……」
「あ……うん」
なんとなく、やましい気持ちをごまかせた感じになって、俺はその缶を受け取った。
……間接キスだ。
意識しないように、そして意識させないように、俺は烏龍茶の缶に口をつけた。
「一口だけですからね……」
龍那が念を押す。
「分かってるよ……」
温かい液体が、口の中を、そしてのどを通っていく。
どこかに甘い香りがしたのは、ゴスロリ少女の香りだろうか。
そして俺は
──嘔吐してのた打ち回った。
「うふふ。一口だけにしておいてよかったですわね、お兄様」
頭上から、龍那の声がした。
「私、コモドドラゴンの獣人なんですよ。口の中に致死性のバクテリアを持つ。
だから、私にキスをしたり唾液を飲んだりしたら死にますし、
飲みかけ──これは唇を軽く押し当てただけですけど──
のお茶を飲めば、そうして死ぬ一歩手前で悶え苦しみます。
だから、私はくしゃみで飛んだ唾でまわりの人たちが死なないように
いつもマスクをしているのですよ。さて……」
龍那は、急速に意識が薄れ出した俺を片手でひょい、と担いだ。
「ここまでやってしまったら、我慢強いティティスも喧嘩を買わざるを得ないでしょう。
なにしろ、たったひとりのつがい候補を人質にされたのですから……」
ゴスロリ娘は、そのために禁忌を犯したのか。
失神する寸前、俺はティティス、とつぶやいたような気がした。
だが、すぐに意識は闇に閉ざされた。

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最終更新:2008年03月06日 15:41