その日は月が青く澄み渡り、縁台に座って茶をすすれば遠く虫の鳴き声が心地良い夏の夜だった。
「神は天に在り、世は全て事も無し…そろそろ寝るか。」
どんどんどん!―――たのもーっ!
できれば無視して眠りたいが、放ってほいたら戸を打ち破る勢いだ。
やむなく重たい腰と尻尾を上げて入り口に向かって戸を開けながら文句を投げる。
「なんだなんだ騒々しい。戸を破るつもりか!…ん?」
来客の顔があるべき位置からずっと下、余の腰より下に顔があった。

齢は五つばかり、ぼろを纏った背中には不釣り合いな拵えを担っている。
「お前が龍か!」
「いかにも余は龍だが…小僧が何用ぞ?」
「小僧じゃないやい!僕は刀刃斎って名前があるんだ!お前をやっつけてやる!ていてい!」
言うなり手を振り上げて殴りかかってきた。なんだこの騒々しい小僧は…。
尻尾を小僧の体に巻きつけて持ち上げると、今度は卑怯卑怯と声を騒ぎ立てる。
「う…うわーん!ずるいよ!」
泣いたり怒ったり忙しい小僧だ。
「全く、すっかり眠気が失せたではないか。まあ入れ。」
「余の淹れた茶だ。ありがたく飲むがよい。」
「熱い。ふーふーして。」
「…」
黙って受け取り、息を吹きかけながら訪ねてみる。
「ふーふー…そなた、余に何用か…というのは聞いたな。親はどうした?ここまで歩いてきたのか?」
「うん、ずーっと西の方から歩いてきた。お父とお母は戦で死んじゃった。」
西の地…あの戦か。
「みんな、みんな死んじゃった…でも、龍の血があればみんな生き返るんだ!」

「それで余に斬りかかった訳か。ふん、甘い考えだ。」
自分の湯のみに茶を注ぎ、仄かな湯気を眺めながら言葉を続ける。
「確かに、余の血は人を黄泉返らせる事も、不老不死にすることもできよう。だがそれで何を得る?
森羅万象の理を覆して得た偽りの命?それは…死者と変わらぬ。」
そこまで告げ、私は声を押し殺して泣く少年の言葉を待たずに腰を上げ、茶道具を片付けて寝支度にかかる。
「もう夜も遅い、寝ろ。」
「でも、ひっく…僕…」
「まどろっこしい奴め、こっちに来て寝んか。」
首ねっこを掴んで布団に引きずり込む。もともと一人分の布団だから狭いのは否めないがこの際やむを得ない。
それに、このような幼子を捨て置いては龍の名折れだ。
それにしても成り行きとはいえ、龍が人の子と枕を共にするとはな…。
天井を見ながら自分の行動の奇妙さに思わず笑ってしまう。
ぐすん…ひっく…。
「まだ泣いておるのか。そなたも男子であろう?ならば泣くでない。」
「お父…お母…」
「…やれやれ。」
それは無意識の行動だった。私は体を向けて胸に幼子を抱きしめ、震える背中を、その小さな頭を撫でた。

―――ねんねんころりよ おころりよ…坊やはよいこだ ねんねしな…
誰かから伝え聞いた子守歌を口ずさみ、人の子を龍が添い寝をして寝かしつける…まったく、今宵はなんともおかしな夜だ―――などと思いながら私は懐の温もりを抱きしめ、目を閉じた。

翌朝
「あ、あのっ!」
「なんだ?今あさげを作ってるんだ。手短かに言え。」
「僕を弟子にして下さい!僕、強くなって世の中を平和にしたいんだ!」
「いいぞ。…くっくっく、今朝の味噌汁もまた格別よ。ちゃぶ台を出してお椀を並べてくれ。」
今、余は何か重大な事を言った気がするが…。

「では、両手を合わせて。いただきます。」
「い~た~だ~き~ます!」
うむ、うまい。
昨日の騒ぎで腹が減ってたのか、2人してあさげをがっついていた。
「―――しかしあれだな。もぐもぐ、ほなたはまふ、ずるずる、表の物をなんとかへねばなるまいよ。」
かんらから。

燦々と陽光が降り注ぐ夏の朝。騒ぎ立てる蝉の声。
龍と人の子が居を共にする小さな家の表には、地図入りの布団が誇らしげに干されていた。

今日も神は天に在り、世は全て事も…無し?

僕のししょう

僕のししょうは龍の人です。ししょうはとても優しいけど、怒るととても怖いです。
ししょうの頭には二本の角が生えていて、まるでアオジシのようでかっこいいし、尻尾もウロコがついていて強そうです。
お風呂に入るとししょうはいつも大変そうに角や尻尾を洗っているので、僕も手伝っています。
あと、時々お母のにおいがします。ししょうは本当のお母じゃないけど、お母です。
僕は大きくなったらししょうのように強くて優しい人になりたいです。

ろ組 刀刃斎


「なんだこれは?」
碗によそう夕げの香りが立ちこめる中、紙から目を上に向けると刀刃斎は笑いながら答えた。
「今日、お寺さんで書いてきたんだよ。親について書けって言われたから。」
「なるほど…しかしそなたの親御は余ではあるまい?…っと、ありがとう。」
問い掛ける先に差し出された碗を受け取り、返しに茶を互いの湯のみに注ぐ。
「ん~だって、ししょうは僕のもう一人のお母だから♪
そうそう、今日は大根の葉の雑炊だよ!隣りのお春婆ちゃんがくれたんだ~。」
あっけらかんとしたその答えは私を呆けさせるに十分だった。
「…そ、それはそうとして、お春の小娘には礼を言わないとな。」
では、いただきます…熱っ!
「だ~はっは!それで舌を火傷したってのか。全くお前らしいなあ!」
バンバンと床を叩きながら笑い転げるこやつ、普段なら一発お見舞いしたい所だが…。
「う、うるひゃい!余はなんろも思っれはほらぬわ!」
「そうかいそうかい。くくくっ…」
必死で笑いをこらえているのか、頭の犬耳は震え、尻尾はぶんぶんと忙しなく振られている。

柴犬の神、犬神奈々は私の強敵(とも)であり我が家を訪ねてくる神衆の一人だ。
犬神は野良犬の神も兼ねているためか、一カ所にとどまらずあちこちを旅している。
「れ、こんろはろこにいっれきらんら(どこに行ってきたんだ)?」
「四国八八ヶ所を巡ってきたぜ。四国はいいね~!飯はうまいし景色はいいし、男もおいし…まあその話は坊主が帰ってきてからかな~♪」
「ば、ばかものっ!刀刃斎に要らぬ知恵を吹き込むでないっ!」
ぼんっと頭から湯気が出た気がした。
「なんでだよ~?坊主はきっとイイ男になるぜ?今からちゃんと知識を付けておけばいざ、交わる時に…」
「皆まで言うな~!あやつは余の…余の…!」
「ただいま~!ししょ~稽古しよ~!…あ、犬神のお姉ちゃんこんにちは!」
…空気が凍りついたのは余の周りだけだろうか。
「刀刃斎~久しぶりだな~!3ヶ月ぶりか?ますます可愛くなったな!まあまあ、まずはウチと一緒に風呂でくんずほぐれつ…」
くんずほぐれつって何~?と、きょとんとしている刀刃斎の手を引っ張っていく。
「こんの犬神ぃ!そなたの言葉には邪念しか感じられぬわ!刀刃斎はいつも余と風呂に入っておるのだ!なあそうだろう!?」
こくりと頷く刀刃斎。ふっ…勝ったな。

だが、奴は奥の手を繰り出した。
「今なら耳と尻尾、触りほうだい…」
勝ち誇ったように笑う奴の顔は忘れようもない。
「え!ほんと!」
きらきらと目を輝かせる刀刃斎の先にはふさふさ尻尾、ふさふさ犬耳。
「ああ、今日はお触りおっけー♪なんなら別の所も触ってもいいんだよ…」
「別?」
「うん…例えばウチの(ry」
「わーっ!わーっ!刀刃斎、今日は余の尻尾と角もお触り…おっけーだぞ!」
刀刃斎の手を取り叫ぶ私は鬼気迫る勢いだったのではなかろうか?
「んと…じゃ~ししょーと、犬神のお姉ちゃんと、僕の三人で入ろ!」
再び凍りついた空気、やがて飛び散る火花。
風呂場はてんやわんやの大騒ぎ、結局仲良く床に就いてしまった。

「おい…起きてるか?」
「余は眠いのだぞ…なんだ。」
傍らにはスヤスヤと眠る刀刃斎。
心底満足げな寝顔で、うわ~柔らかい~ふさふさ~とか、ししょうの尻尾とウロコは体洗うのにちょうどいいね…などと好き勝手言っている。

「四国も行く先々で戦ばかりだったよ。全く、人間はどうしてこうも争いばかりするんだろうな?」
「人は種族では無く、個体で生きている。だから人は争い、寂しがり、寄り添わなければ生きていけないのだと…余は思うようになった。」
夏の夜風が部屋の熱気をさらっていき、虫の声がにわかに賑やかさを増す。
「四国で出会った狸の長に言われたよ。自らを憎み、傷付け、殺す事ができるのは人間だけだとさ。」

「では…我らが自ら命を絶てば人間に近付けるのだろうか?」
無音の静寂が床を包み、応えの代わりに寝息が聞こえてきた。

犬神は一週間ほど寝泊まりしていたが、やがて鎮西に行くと言ってふらりと出ていった。
「ししょーっ!お寺さん行ってきまーす!また後でね!」
「ああ、気を付けてな。」
いつからだろう?私の顔に自然な笑顔が浮かぶようになったのは。
空はうららか良い天気、そして初めての参観日。
どれ、腕を奮ってあやつのお弁当を作るか。

ずずず~っ!
「は~。やっぱりここのお茶はおいしいね~!」
「そういってもらえて嬉しいです。おはぎ、作ったんですが食べます?」
「もちろん♪刀刃斎ってホント、男にしておきのはもったいないよな~。」
それは余も納得いく。
こやつはもともと家事を好んではいたが…元服の義を迎えてからは剣技と並んで料理もますますうまく…
「って、少しは遠慮せんか!刀刃斎も犬神にはもう何もやるでないぞ!
こやつには何を与えても胸にしか栄養がいかんからな。」
ふん、いつ見てもけしからん乳をしおってからに。

「…胸を見てるん?」
「っち、違う断じて違うぞ!…ひっ!?さ、触るでないっ!」
「ふひひ、ウチらが何年の付き合いだと思ってるんだ?
ウチは美乳好きだからな~♪」
な、なんでこやつはこんなに手慣れて…くぅ…ふ…ぁ。
「っと、こんなことしてる場合じゃないや。」
「はぁ…はぁ…全く、何用だ?」
「いやなに、常世の見納めにここで月見酒でもと思ってさ。」

その日の夜は雪が吹き荒び、鈍色の空は全てを神白に隠さんばかりにうなりをあげていた。
師匠と犬神さんは囲炉裏と酒を囲んで古い、古い…僕には分からない神さまの言葉で話している。
何を話しているかは分からないけど、二人はとても楽しそうに見えた。

が、この二人が酒を酌み交わすとロクな事にならないのはいつも通りだ。
「と~じんしゃい~!ウチはな、いろんな男を食ってきたけどな、こ~んなイイ男はなかなかいないよ?
もう、小さい頃からずっと狙ってたんだけどさ、この年寄りくさい龍がものすっごい目つきで睨んでくるんらよ?」
僕の膝に頭をのせ、お腹を撫でられながらあれやこれやと訴えかける犬神さん。
適当に相槌を打ちながらふと顔を上げれば、
「犬神ぃ~!余でもしてもらった事のない膝枕とお腹なでなでをしてもらいながらあまつさえそのような戯れ言を…っ!」
などと膨れっ面で地団太を踏む師匠。
笑い声と、尽きない異国の話と、おいしいお酒。
いつも通りの夜。いつも通りの二人。いつも通りの時間。
そして夜はいつも通りに朝を迎える。
それは「神としての役目を終える時」らしい。
人の想いから産まれ、人に崇められ、人に忘れられた時…神としての役目が終わる。
暁に染まりゆく空を背に、彼女は僕と師匠を交互に抱きしめて嬉しそうに笑っている。
「やれやれ、ウチの32000年ばかりの役目もやっと終わりか…これからはのんびりとさせてもらうよ♪」
うーん、と伸びをして彼女はさも当たり前のように僕にキスをした。
「ふふん♪刀刃斎の初めて、奪っちゃったね~♪
まあ、筆下ろしできなかったのは残念だけど…それはそこの龍がしてくれるだろうしね~。」
「バカもん!さっさと行ってしまえ!」

あいあ~い、と軽い返事が聞こえたかと思うともう彼女は消えていた。
「…またの。」
師匠はぽつりと呟き、僕の手をその小さな手で握りしめた。
命が芽吹き桜が咲き誇る春、蝉時雨と青葉に包まれる夏、木々が枯れ落ちゆく秋、深々とした雪白と死の匂いが濃くなる冬。
幾千幾万幾億幾星霜もの間探し続けてきた何か。
それはとても脆くて、ちっぽけで、弱くて…温かい何か。

天蓋に包まれた世界から飛び立つ白い鳥。
見果てぬ彼方を目指し、七日分の命と誰かの願いを乗せて宙に飛び立つ犬。
人の業に滅び去った世界で帰らぬ主人を待ち続ける猫。
森羅万象は産声をあげたその瞬間から死へと向かっている…生物も、世界も、星も、銀河も、宇宙さえも表裏陰陽の理を断ち切る事はできない。
愚かな人間よ。闘争がある故に慈愛があり、慈愛がある故に闘争があるのだ。

―――違う、僕はただ…

人間よ、貴様は目を背けているだけだ。
本当は貴様も知っておろう?戦いが平和を生み、平和が戦いを生むことを。
そして…余の存在も。

『知らない!僕は何も知らないんだ!知りたくないんだ!
僕はただ、人を救いたいだけなんだ!』

―――ならば、救ってみせるがいい。

目を覚ますと、体中の神経が透き通っているみたいで心地よかった。
刀を手に外に出ると満月が草原を青く照らしている。
僕は静かに腰を落とし、目を閉じた。
龍神は月に立っていた。
“静かの海”と呼ぶそこは絶対の静寂に包まれ、どこまでも白く清浄な地が広がっている。
耳を澄ませば声が聴こえる…戦の声だ。
目を閉じれば姿が見える…戦の姿だ。
幾千の幾万の幾億の戦。
過去の現世の未来の戦。
忘れ去られた戦、未だ見ぬ戦。
始まりの戦、終わりの戦。
始まりと終わりと始まり、死と生と死。
戦と、戦と、戦と、戦と、戦と、戦。
我が身は果つる無き戦を孕まん。

―――時、至れり。
僅かに虚空に響き渡る言葉と共に龍神は青い星へと降りていった。

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最終更新:2008年05月31日 01:48