1.
チコが習字をしている。
我が家の愛犬チコは、いわゆるイヌミミっ娘。
ぼくが、大学のキャンパスでチコがうずくまってる所を拾ってきた。
始めはやせ細っていたが、今ではすっかり元気になって、いつも跳ね回っている。
見た目は栗色のボブショートの女子中学生。ぴょこんとイヌミミが垂れていて
美しい毛並みの尻尾が自慢の女の子。つぶらな瞳には、飼い主のぼくも心奪われる。
ただ、拾われっ娘なので文字を禄に知らぬ。今日は、彼女なりに文字を覚えようとしている。

「むうう。上手く書けないよぉ…」
居間のテーブルにぼくが小学生のときに使っていたお習字セットを広げ、自分の名前を書いている。
チコがねだるので、仕方なしにぼくがお手本を書く。しかし、悪戦苦闘の様子。
チコはじゅうたんに直に女の子座りをし、ぼくは向かい側で上からじっと見下ろす。
今にも泣きそうな顔をしているチコ。棒を握るように筆を持っている。
半紙をぐりぐりと筆で回す。あわせる様に半紙も回る。
あまりにも滑稽なのでぼくは笑ってしまった。
「ったく、チコはへたくそだなあ」
「へたくそじゃない!」
「やーい。へたくそが怒った!!」
「へたくそじゃないの!!」
チコはかんしゃくを起こして筆をぼくに投げつけた。あーあ、じゅうたんが汚れてしまう。
頼むからやめてくれ。ぼくが親から叱られる所など、チコに見せたくない。

2.
「ほら、筆はちゃんとこうやって持って…」
ぼくは、力なく転がる筆を拾い上げ、チコの後ろに回り、右手に優しく持たせてあげる。
上手く書けないチコはふぐのように膨れっ面をする。
「もー!書けないっていったら書けないの!!バカ!」
チコから筆で脚を叩かれた。ズボンが墨汁で染まる。
「ほらほら、ダメだってば。筆を振り回しちゃ」
「あーん、お習字なんか死んでしまえ!!」
「チコ!」
泣きべそをかく少女に手間取るぼく。とうとう、いじけてふて寝をしてしまった。
ぼくは両脇を抱えて、彼女を起こす。
「もう、やだよお」
ふさふさした尻尾が、ぼくの足をぴたぴたと叩く。
「ほら、『チ』は右からこうやって…」
チコは、いやいや筆を再び手に取ると涙ぐみながらぼくに従った。
正直、ぼくも書道なんぞ自信がない。ただ、チコよりは上手く書けるはずだ。
「いい子にしたら、ごほうびくれる?」
「はいはい」
筆をゆっくり滑らす。チコの後ろ髪がぼくの顔に近づく。髪の匂いがする。せっけんの清潔感漂う香り。
チコはチコで真剣。横棒をしゅっと引っ張る。
三画目。ぼくもチコも息を飲む。
…できた。

3.
「ほら、上手く書けたじゃない」
「すごいすごい!もう一回書いてみるよ!」
ほほを緩ますチコ。半紙は「チ」の字で埋まった。
「じゃあ次は『コ』だな」
自信をつけたチコは、お手本を見ながら書いてみる。
何かを学ぶのは面白い。義務でなく、興味から入るとどんどん己の身となり力となる。
「できたあ」
荒削りだけど、自分の力で書いた自分の名前。チコの顔が、ぱあっと向日葵のように明るくなる。
本当にチコは嬉しそう。彼女がうらやましい。

ぼくは、ごほうびにイチゴを持ってくる。ミルクと砂糖をたっぷりとかけた、甘いイチゴがチコの好物。
尻尾をぶんぶんと振る、最上級の表現。チコは手づかみでイチゴを掴む。
一口でぱくっとイチゴを口に入れる。あーあ、指まで口に入れてるし…。
指先は唾液と混じって、白くべたべたしている。
「んまーい」
指先をちゅぱちゅぱと音を立てながら、舐めまわすチコ。
とろけそうな唇から、白いミルクが一筋。
「ほら、ちゃんと拭かなきゃ」
ティッシュでぼくはミルクを拭いてやる。ちょっと嫌がる素振りを見せるチコ、
「ンモー。もう子供じゃないもん!!」
イヌミミをぴくっと動かして威嚇している。

4.
いきなりチコがぼくの指をくわえた。チコとぼくの眼が合う。
「あ…」
マヌケなぼくの声が漏れる。チコはいたずらっ子の目で見つめている。
ちゅるっ。
つるりと、指は口から解き放たれる。指先から、チコの匂いがする。
上唇をぺろりとなめ、子犬はにまにまと笑っていた。
「ふふふ。おいしかったよ」

チコは、どたどたと居間から走り去ってしまった。お習字セット、片付けるのはぼくかよ…。
チコを追いかけて行くと、ぼくの部屋からくすくすと笑い声が聞こえる。
ドアを少し開けて覗いてみると、クッションを抱きかかえているチコの姿があった。
チコは自分の書いた習字を見ながらごろごろと転がっていた。よっぽど気に入ったのか。
ぼくはチコに聞こえるようにつぶやいた。
「へたくそー」
子犬はかんしゃくを起こして、クッションをぼくに投げつけた。


おしまい。