夢を見ていた。

不思議な浮遊感。
透き通るような青空の中を、俺は漂っていた。
眼下に広がるのは見覚えのある景色。それは、収穫を待つ水田以外には何もない、俺の嫌いな故郷の風景。
けれども、その光景は、最後に見た其れとはほんの少しだけ違っていた。何かが、違っていた。

不意に、何かに引っ張られるかのように、俺の視線はある場所で固定された。正確には、ある物に固定された。
それは、小さな子供。白いシャツと短パンに身を包んだ年端もいかない男の子。
その子供は険しい山道を、一心不乱に上へと目指して走っていた。
動物の通る、道とも呼べないようなわずかな痕跡を頼りに、両脇から押しつぶそうとするかのように生える草花を掻き分けながら。
子供の向かう先には、ただ青々とした森が続くだけで、他には何もないように見えた。
何の目的もなく、危険な動物に襲われる危険すら無視して、ひたすら山奥へと進む子供のその行為は一見すれば、それはなんとも馬鹿げた、無意味な行いに思えた。

だからこそ、訳がわからない。
今見ている夢の意味が、そして、この胸を締め付ける寂しさにも似た懐かしさが。

頭が、痛い。

考えれば考えるほどにまとまらなくなっていく思考が恨めしい。
さっきまで、夢を夢と認識さえできるほどになっていた意識が、ノイズまみれになって、端から霧散していく。
何かを忘れている、そう、大事な何かを。
だというのに、一向に思い出せない。遠い昔、何か、僕は――。

そこで、脳髄を襲う痛みがさらに激しくなった。思わず両手で自分の頭を抱え込み、足場のない空中でもだえる様に身を丸める。
それはまるで、自分の頭から染み出そうとする何かを抑えているように見え、自分の中に押さえ込まれた何かを引き釣り出そうとするさまにも見えた。

土に汚れたくすんだ白いシャツ。色あせた紺色の短パン。

あれは昔の俺だ。眼下に広がる一面の水田が世界のすべてだと思っていた頃の俺。
馬鹿みたいに純粋で、誰を羨ましがることもなく、毎日を何も考えず楽しんで生きていた頃の、俺だ。
あの頃の俺にはかけがえのない友人と、尊敬する両親と、大切な妹と、彼女が――彼女、まて、『彼女』って、誰だ。

一瞬、まとまりかけていた思考が再び散り散りになる。
自分の頭の中に、自分の意思とはまったく別の何かが存在している事に、この時俺ははじめて気がついた。
なぜかはわからないが、それは俺を邪魔するのだ。『彼女』を思い出すことを。

村に唯一ある神社。俺の生家でもあるその寂れた社の裏手。
入るなときつく厳命されていたその山を、だけど僕は親の目を隠れて頻繁に訪れていて、そののぼった――さき――に――――



記憶は結末を結ぶことはなく、俺は、すべてを思い出せないままに眠りから覚める。
目覚めは、穏やかだった。
窓から差し込む陽の光の眩しさから逃げるように起き上がると同時に、田舎独特のどこか冷たい空気に混じる、懐かしい食欲をそそる匂いが鼻につく。
不思議なことに、普段俺は決して寝起きはいいほうではないというのに、今日はなぜか意識がはっきりとしていた。
寝巻き用に着ていた白いシャツとトランクスを脱ぐ。昨日の夜は別段蒸し暑くもなかったはずだったが、その二つは汗でべったりと濡れていて、不快だった。
部屋の隅に置いた大きな旅行鞄から、変えのパンツと普段着を取り出し、それに素早く袖を通した。
肌に伝わる柔らかな感触。出立前に洗濯し、天日干ししたままに片付けたそれらは、一日経った今でも太陽の香りを失わずに、その衣で俺を包み込む。
膝立ちになり、旅行鞄の蓋に貼り付けた携帯用の鏡に映る自分の姿を確認する。汗に濡れた髪は俺自身の寝相の悪さもあいまって酷い寝癖を形成していた。
それは一種の前衛的な芸術とも言える程に。端的に言えば、爆発したかのようだった。

こんな事になるなら、さっさと美容院なりなんなりに行って、髪を短くしておけばよかった。

後悔するには、もう何もかもが遅かった。
村には美容院なんてなく、昔から男はすべからく丸坊主に、女は少し腕の覚えがある程度の人間に切ってもらうというのが、しきたりともいえないこの村の習慣だった。

憂鬱な気分を抱えたまま、障子を開け、廊下に出る。田舎特有のからっとした暑さの中で、素足に伝わる木の冷たさが気持ちいい。

洗面所は確か、一階だったな。

もう、そんな風に思い出さなければならなくなる程に、自分とこの村の接点は薄くなったのかと、この村の外で過ごしてきた時間の長さに少しだけ思いをはせる。
自身の故郷だということもあり少しだけ寂しく思えたが、それ以上に、この閉鎖的で世界の流れから取り残されてしまったかのような場所から自分がまた遠く離れることが出来たと
実感できることにちょっとした安心をも同時に感じていた。

「あ、お兄ちゃん起きた――って、酷い頭」

寝癖頭をかきながら一階に下りた俺を出迎えたのは、今まさに帰宅してきたらしい、見覚えのある特徴的な白と赤の装束に身を包んだ妹、涼乃の、笑みの混じった声だった。

「あぁ、おはよう。そして笑うな。好きでこうなったわけじゃない」

そこまで言って、俺は、涼乃のその手に握られたソレに気がついた。

「なんだ、それ?」

そんな俺の問いに、涼乃の表情が、微笑んでいた形そのままに不自然に固まった。

それは鏡だった。

俺の生家は、代々、村に唯一ある神社のその管理を任されてきた家系だ。
もともと神主に当たる存在はいたらしいが、江戸中期頃に見舞われたという災厄が元で、その神主の一家は根絶し、近しく接していた俺のご先祖様がその後を引き継いだらしい。
引き継ぐといっても、祭事を取り仕切るどころか、字の一文字一句も読めなかったために、居なくなってしまった神主の真似事すら出来なかったという話だが
それでも、結果、今この俺の代に至るまでこの神社の管理という仕事は延々と続けられ、その甲斐もあってか、今では祭る神の名さえ伝えられず、訪れる者もまるでいないというのに
社の境内はずっと清潔に保たれていた。

ちなみに、妹が今着ている衣服・・・・・・紅白で彩られた巫女装束は、はるか昔に根絶した神主一家が残した、数少ない由緒ある物らしい。
そんな滅多に身に着けないものを着てまでして扱うものだから、きっとこの神社に伝わる何か大事な物だろうというのは簡単に予想がついたが
人間、好奇心は抑えれないもので、その明らかに古びた鏡がいったいどういった、そして、どのような用途に使われたのか
きっと後々考えれば正直どうでも良くなるだろうそんな事にも、今の俺は不思議と心が引かれ聞かなければならないという気持ちに陥っていた。

「えっと、これは、ね・・・・・・」
「・・・・・・? おいおい、どうしたんだ。お前らしくもない」
「大事なものなんだよ。お兄ちゃんは見たことないと思うけど、ずっと本殿に飾ってあった・・・・・・そう、大事な・・・・・・」

記憶の中では、いつもはっきりとした物言いが長所でもあり短所でもあった妹の、その言葉が珍しく濁っていた。
後になればなるほど声は小さくなっていき、最後には判別すら出来なくなっている。
それまでの見たこともないものへの好奇心に加え、そんな妹の様子に鏡に対する興味がさらにかきたてられる。

その心境は、普段の俺からすればきっと異常なもの。

「ほれ、ちょっと――」
「こら。涼乃が困っているでしょう。お兄ちゃんなんだから」
「いてっ」
「お母さん!」

不意に、叱咤の声とともに後頭部に激痛が走る。
痛みを自己主張する部分をさすりながら振り向けば片手にお玉――きっとそれが凶器なのだろう――を持ったわれらが偉大なるおかあさまが仁王立ちで立っていた。

「何するんだよ。痛いじゃないか」
「あんたがいい年して子供みたいなことやってるからよ。ほら、さっさと洗面所に言ってその酷い寝癖を直してきなさい。後々、近所の人たちもいらっしゃるんだから」
「近所・・・・・・? あー・・・・・・わかったよ。面倒くさいな」

促されるままに、母親の指が指し示す方向に向かって俺はゆっくりと歩き出した。
その頃には、不思議と、今さっきまで心を支配していたあの鏡に対する興味は、綺麗さっぱりと消え去っていた。





ぺたぺたと洗面所へ向かって歩く、数年ぶりに見た兄の後姿を、私は不安な面持ちで見送る。
今さっき私を助けてくれたお母さんもそれは同じようで、その瞳は兄の首筋に固定されたまま動かない。

「・・・・・・涼乃。どう思う?」

この場合の『どう』というのは、もうアレ以外を指してはいない。

「まだ、大丈夫だと思う。・・・・・・多分、だけど。どっちにしろ、もう一対をとりにいった父さんが帰ってくるまで、私達には何も出来ないから・・・・・・」
「その鏡があの子に見えるようになったのが最大の問題ね。認識できない限り害はないのに、認識してしまった。思えばもうあれから10年か・・・・・・」
「ええ。おじいちゃんの張った封印はまだ持つと思ってたんだけど、こんなに早く綻びが出るなんて」



その時、開いたままの玄関から一陣の風が家の中に吹き込んで、広くはない家屋の中を駆け巡って、去っていった。
風が向かった先は、涼乃の兄、啓二が夢の中で幻視した、かつては孤里山と呼ばれていた、今ではもう滅多に人の立ち入ることのない山の頂上。
涼乃もその母も、ましてや啓二もそのことには気づかない。

強い風が木々を揺らす。
それはまるで、笑っているかのように。

昼も過ぎた頃。
俺は部屋の中で一人、布団の上に寝転がっていた。
旅行鞄の中身は既に片付け終わってしまったし、ちょっとしたご近所づきあいもすべて住んでいて、別段やることもなく、ここに着てから二日と経たずに
酷い退屈に俺は見舞われていた。
携帯電話はこのご時勢だというのにまったくの圏外で、振っても叩いても空に向かって高く突き出しても俺をあざ笑うかのようにその本来3本線が並ぶはずの場所は変化せず。
ノートパソコンも持参してきてはいたが、こんなド田舎でネットワーク回線が繋がるはずもなく。
あまりたくさんの荷物は持ってこれなかったので、他に本など暇をつぶすためのものを持ってきてもなく。
――つまるところ、やることがないのであった。
だから田舎は嫌いなんだと、いつだったか、ある頃を境に持ち始めた意識を再確認して、俺は立ち上がった。

窓の外には、どこまでも続く山々と、水田が広がっていた。
夏の日差しは決して好きではないが、このままこの部屋の中でするめのように干からびるくらいなら、都会に出てからは滅多に味わうことのなかった自然の中を歩くほうが
よっぽど有意義に思えたからだ。
今さっき懐かしいおふくろの味を収めた腹は十分に満たされている。俺はそのまま一階に降りて、年季の入った冷蔵庫の中にある自家製の果物ジュースを、ここに帰ってくるときの
電車やバスの旅の途中で飲み干した炭酸飲料水が入っていたペットボトルの中になみなみと注ぎ込んだ。

「腹具合良し。飲み物良し」

付け加えて気温暑し。
そう、口の中でつぶやいて玄関に向かう。
不思議と、めぐりが悪かったのかはたまた他の要因なのか、何をそんなにやる事があるのか忙しく動き回っているようなのに、家の中で、玄関までの道中、母にも涼乃にも会わなかった。
家の中に居ないのかと思えば、そうでもないらしく、昨晩見たばかりの二人の靴はともに、綺麗に玄関口にそろえておかれていた。

「・・・・・・ま、そんな時もあるだろう」

俺は特に何も考えず。そのまま、外へとちょっとした小観光に出た。


「退屈だなぁ・・・・・・」

気晴らしのはずの散策も、すぐに飽きが来た。
数年前のソレとまったく変わらない風景。最初はちょっとした感慨もあったような気はするが、何から何まで変化なしとなるとそれは懐かしさを通り越して一種の怒りまで辿り着いていた。
結局殆ど歩くこともなく、実家のすぐ隣にある神社の境内の木陰で、俺は涼んでいた。

「ほんと、だから田舎ってのは・・・・・・」

中学にあがったばかりの頃。ここに住んでいた頃は毎日のように呟いていた言葉が口をつく。
適当に見つけ、腰掛けた石段は木陰に隠れていたせいかひんやりと冷たく、太陽の暑さにやかれた体から篭った熱が、少しづつ吸い込まれて心地よい。
不意に、視界の端に何か動くものを見つけた気がした。
ゆっくりと立ち上がり、何となしにそのところまで歩みを進める。するとそこには、ちょっとした獣道があり、山の奥へ方へと続いているように見えた。

「こんなの、あった・・・・・・か?」

生まれてからこの村を出るまでの間の記憶を思い出す。
子供の頃、俺は、年相応にやんちゃで、娯楽の少ないこの村を、数えるほどしかいない同年代の友人達との間に縦横無尽に走り回っていた。
それは、この神社の中も例外はなく、あるときは立ち入りを禁じられていた場所にうっかり入り、皆揃ってこっぴどくしかられたこともあった。
それ程に、あのころの俺達は毎日を『探検』に費やしていた。それは、後々、何もないこの村への失望へと繋がるのだが。

何はともあれ、つまるところ、昔の俺はこんなものがあるとは知らなかった。
となると、最近出来た道かなという考えが頭をよぎるが、見た限りこれはずっと昔からあるようで、ほんの数ヶ月の間に出来た物のようには見えなかった。

「昔の俺も、詰めがあまいなあ」

そんなことを言いながら、俺は、自分の胸に、確かに喜びという感情が生まれているのを感じていた。
まったく、すべて知り尽くしたと思っていたこの小さな村にも、まだ俺にとって知らないことがあるじゃないか。
少し考えて、俺は、この獣道の先に何があるか確かめようと、そう決意した。
丁度暇だったことに加えて、生来の好奇心が、俺にこの先へと行けと命じるからだ。

ふと、何かに呼ばれたような気がして、後ろを振り返る。
だが、視界に移るのは物言わぬ社で、耳に届くのはかすかに揺れる木々のざわめきだけ。

しばらくその空間をじっと見つめていたが、何をしているんだろうと思い直し、俺は、草木を掻き分けてその獣道をたどっていく。
まだ見ぬ場所に思いをはせながら。


何かを、忘れている。何を忘れているのかはまったくわからない。
そもそも、忘れたことさえ俺は忘れていたのだから。

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最終更新:2008年03月04日 14:39