「がばっ…ごぼぼぼぼぼ…っ!」

海洋調査の為、指導教官の皆川教授が推薦してくれた四国の幸島(さちじま)。そこは水軍の本拠地として栄えた島であると同時に、独自の生態系が栄える貴重な魚の宝庫でもあるという。一般人にはおろか、研究者の中でさえその島を知るものは少ないが、特別に教授が紹介してくれたとあって、僕は張り切って調査に乗り出していた。
(教えられて気付いたのだが)母の実家もこの島からそう遠くない為、夏休みのたびに海で遊んでいた僕は素潜りにも自信があった。海の中で生きる美しい生態系に魅せられて、朝から久々の海を堪能していたが…

今、岩の隙間に右手が挟まってしまい、もがいてももがいても抜けそうにない。焦りが酸素と思考力を奪い、思わず口をあけてしまった瞬間、喉から海水の奔流が肺に流れ込み、ますます意識を遠のかせる。
酸欠と焦りと死の恐怖で真っ白になる思考と、黒い帳が目の前を覆い尽していく視界。白と黒が目の前でせめぎ合い、火花を散らすように自分の意識を肉体から剥ぎ取っていく。これが、死ぬと言うことなんだ…
そんな事を薄れ逝く意識の中でぼんやり考えた。と…

ぐいっ。

何か、黒く、大きく、力強いものに体を抱えられ、引っこ抜かれるような感覚を覚えた。手が抜けていく。
(なんだか、母さんに抱かれてるみたいだ…)そんなことを思い出したのを最期に、意識は薄れて掻き消えた。



やわらかい。あたたかい。潮の香りもする。もしかしてこれがあの世なんだろうか。
潮の香りがするなら、ここは三途の川じゃないんだろうな。じゃあ、ここってどこなんだろう…?
それに、潮騒の音まで聞こえてきた。あの世にも海ってあるんだな…

…海…?

海、という言葉に何か意識へ小石がこつんと当たるのを感じた瞬間、意識が体に戻ってくるのを感じた。
ゆっくりと、眼を開ける。
「おう、おどろいたがよ」

目を開けた僕の目の前には、真っ黒に日焼けした、しかしとびきりの野性的な美女の貌が映った。
意志の強そうな太い眉、意志の強さと優しさを感じさせる優しげな黒目がちの瞳、通った鼻筋、口元からこぼれる白い歯。
人間の力強さと美しさって、ここまで両立出来るのか…女性に対して抱くには些か場違いな感想から、

「あ、は、はい。びっくりしました」

思わずこぼれ出た僕の言葉に、目の前の美貌が笑顔ではじけた。

「あっはっはっはっは…目ぇ覚めた? ちぃ聞いちゅうが。ま、息災でなによりぜよ」

今、僕はどこかで布団の上に寝かされている。潮騒の音、潮の香りも夢ではなく、海がすぐ近くにあるようだ。
ゆっくりと身を起こし、周りを見回すと、板敷きの部屋に格子窓から海が見え、竈と薪も入り口の戸近くに見える。
どうやら、ここは漁師さんたちの休憩小屋らしい。目の前の美人は思ったよりも大柄で、身長170cmそこそこの僕よりずっと背は高そうだ。肩までありそうな綺麗な黒髪をポニーテールでまとめ、藍染めらしき半纏にハーフパンツを履き、胸元にサラシを巻いてる。…うわぁ、サラシで押さえ込んでるけど、胸も凄く大きい。

「おまさん海で泡くって沈んどったきに、うちが拾ってきちゅうよ。だいぶ水ぁ呑み込んどったきに、吐かすのも骨ぇ折ったがよ、まあえずい目にも逢ったろうが、魚ん餌ぁならんでよかったのう」

「あ、はい。あのう、ありがとうございました! …げほげほっ」

サラシの上から尚も胸がぶるん、と揺れたのと、喉の奥から塩味が込み上げて来たのとで、思わずえづいてしまった。

「あっはっは、こじゃんと塩水飲んだきに渇(かぁ)苦しいにかぁあらん。ほら、飲みぃや」

差し出された湯飲みから、久方ぶりの真水を飲み干す。陸上生物なんだな、俺…と思わせるほど、その一杯は旨かった。飲み干した水に、女性は急須で水を次いでくれた。二杯目も、するりと喉を通った。
しかし、思い出してみると、意識が遠のく瞬間に自分を抱き上げてくれたものは、日焼けした彼女の腕よりもっと黒く…というか、黒いひれだったような気がする。そう、まるでイルカか何かのような…

「あのう…あ、えっと、どうお呼びしたらいいのか…」
「ん、うちの名前か。さち、でええが。幸(しあわ)せ、と書いて幸(さち)ぜよ。で、何なが?」
「あ、はい、幸さん。実は溺れて気を失う瞬間、なにかイルカのひれみたいなものに抱え上げられたような気がして…僕、幸さんに腕を抜いて貰ったんでしょうか? …あ、助けて頂いたのに変な話をしてすみません」

その言葉を聞いた幸さんは、一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに破顔一笑した。

「あっはっはっは…おまさん、鯱女房に助けて貰うたかも知れんきね。この辺りにゃ、鯱女房の伝説が残っちゅうが」
「しゃち……にょうぼう……?」

初めて聞く…いや、どこかで聞いた事があるような、ないような。そんな「鯱女房」という言葉が頭の中をぐるぐる回っている僕を見て、幸さんは静かに語り始めた。
「実はうちも、浮いてきたおまさんを船の上から見つけて、船の上に担いで助けたがよ。じゃきに、おまさんが溺れた時の事は詳しくはわかりゃーせんが。やけど、昔から似た話はこの辺りに残っちゅうよ。
海で溺れた男が、黒いひれみたいなもんに抱え上げられて命を助けられる話が…。」

鯱女房…つまり、僕をあの時、挟まれた岩から引っこ抜いてくれたのは…シャチだった、という事なのだろうか。
確かにシャチが、人間を狙って捕食する事は殆どないと言われている。むしろ漁船相手にじゃれる事さえあると言われており、人間を助けるという事もあり得ない話ではないし、もちろんこの辺りに生息している事もあり得る話だ。だけど…

「鯱女房のシャチは判りました。けど、女房、って…」

なんとか女房、と言う民話の場合、大抵は何かの動物が恩返しの為に人間の男の妻になる話だが、シャチが人間に化けて人間の伴侶になるなんて話、聞いた事も無い。そんな疑問の浮かんだ顔を見て、幸さんが三杯目の水を注いでくれながら続ける。

「そうにかぁあらん、確かに初めて聞くとみんな妙な顔をするがで。こん辺りは昔、皆川水軍ち水軍が治めちょったがよ…
っとと。さ、ゆっくり飲みぃや。それでな、中国四国は水軍がまっこと多く、それぞれ鎬を削っちゅうけど、皆川水軍は勢力こそこんまいが、長宗我部さんやら他の水軍やらから、一目置かれちょったが。素潜りがしょうまっこと上手なもんが多かったがもあるが、鯱の力を借る事が出来たと言われちゅう。なんでも皆川軍の初代頭領は、母親が人間に変成した鯱じゃったと言われちゅうがよ。うちら、こん島の者は、その初代頭領の子孫と言われちゅうが」

なるほど。この辺りを治めていた皆川水軍は、シャチをトーテムとする一族であり、同時にシャチを飼い慣らすか、あるいは共存するか、いずれかのノウハウを持っていたのだろう。であれば、この辺りに棲むシャチが人間を助けたとしても不思議ではない。シャチを初めとするイルカやクジラの仲間が、人間との共存関係を子から子へと伝える例は南米の辺りだったか…に、実在する。

「まあ、おまさん色男じゃきに、鯱女房も奮発して助けたにかぁあらん。皆川水軍の初代の父親も色男じゃったそうで、鯱女房に惚れられて押しかけ女房をされたそうじゃきに。あっはっはっはっは!」

…思わず湯飲みの水を噴き出しそうになった。けれど、幸さんみたいな美人に色男と言われるのは、なんだかんだで嬉しい。ずっと海洋生物オタク扱いされてきた僕は、今まで彼女なんて居なかったから。
と、幸さんが改めてこちらを向き直った。
「ところでおまさん、東京の皆川先生の教え子やろ? 皆川先生から、うちの教え子が来るちゅう事は聞いちょったがが、うちが先生の教え子の命を助けるとは妙な因縁ぜよ。まあ、今度のような事もあるろうから、うちがおまさんの研究の手伝いをしてもえぇがか?」
「ぜ、ぜひお願いしますっ! あ、僕の名前は先島郁人(さきしま いくと)と言います。申し遅れてすみません」

そう、自分の名前を名乗った瞬間、幸さんは「先島…さきしま…?」と怪訝な顔をしながらつぶやいた。がすぐに明るい笑顔に戻り、

「そうか、先島郁人か、いい名前ぜよ。そうと決まればうちん家に案内するきに。もう体はなんちゃあがやないか?」

どうやら幸さんの家に案内してくれるらしい。僕はゆっくりと立ち上がろうとしたが、ぐらり、とよろけてしまった。

「あら、まだ充分元気が戻(も)んちゃーせんがか。仕方ないきに、ご飯は持って来るから、もうちっくとここで休きいや、な?」

…胸元に思い切り倒れこみ、顔が埋まってしまった。…潮の香りと、女の人って感じの甘い匂いに包まれる。
通りすがりの女の人の香水の匂いしか知らないけれど、幸さんの匂いはもっと自然で、もっといい匂いだと思う。

「あっはっは、郁人は甘えたさんがか? ほら、うちじゃなくて布団で休きい」

あっさりと布団の上に寝かされた。幸さん、漁師さんだけあって凄い力だな…仕方ない、今は幸さんがご飯を持ってきてくれるのを待つしかないか…。僕は布団を被り、目を閉じて横たわる事にした。…さっきの幸さんの
柔らかな胸の感触と、いい匂いをちょっとだけ思い出しながら。

「ぷはぁ…やっぱり、幸さんが船の上で見ててくれると安心ですよ」
「あっはっは、そうかそうか。安心して潜ってきいや、うちが見とるきに」

呼吸を整える為、水面から顔を出した僕に、幸さんが満面の笑みを浮かべる。

幸さんが竹の水筒に持ってきてくれたのは、この島伝統の薬草茶で、口の中をしばらく渋みと酸味が占領するような酷い味だったが、喉を通るや体がすっと楽になった。幸さんの話では、昔からこの島ではクコや高麗人参といった数十種類の薬草を昔から栽培しており、島の産業兼軍需物資として重宝したらしい。
白米に梅干のお握りと、アジの干物をタッパーにお弁当のように持ってきてくれたそれを、僕はあっさりと平らげた。

それと、幸島の民宿を引き払い、皆川教授の紹介で幸さんの所に厄介になる事を告げると、民宿のおばさんがニヤニヤしながら「きばっちょきよ!」と言って来たのには赤面した。いや、そりゃあ男として、あんな美人とひとつ屋根の下っていうのは緊張するけれども。

朝に溺れたのを感じさせないほど、僕の体調は良かった。きっと、あの薬草茶が利いているのだろう。
…良薬口に苦しというが、あれだけ苦くて酸っぱくて不味い薬草茶なのだから効き目もさぞかし強力なのだろう。
しかし、一番僕に活力を与えてくれているのが、幸さんの笑顔である事は疑う余地もなかった。

明るい笑顔、力強さと面倒見のよさ、安らげる澄んだアルトの声、それに…潮の香りと花の香りを一身に纏ったような素敵な匂い。
今まで女の子をなんとなく可愛いと感じることはあったけれど、もっと根本的なところで、彼女に惹かれている、そんな気がしたが、まさか言い出せるはずもない。

息を整えてから、民宿のおばさんと同じ言葉だが、はるかに僕に力を与えてくれる幸さんの言葉、「きばっちょきよーっ!」の言葉にうなづいて、僕は再び、知的興奮を与えてくれる海の底に向かった。

(やっぱり綺麗だなあ…)
四国本島からは太平洋にぽっかり浮かぶように見えるこの幸島は、小規模ながら珊瑚礁が形成され、南洋の彩色豊かな魚類と、太平洋の魚とが共存している。最近は高知県の沿岸にも定着が進みつつあるようだが、この水域はどういう訳か水温が冬でも安定し、また潮流の関係か藻場と珊瑚礁が共存しており南洋の生態系が温帯の生態系を圧迫するでもなく共存しているのだという。なるほど、この島であればシャチも漁民も、お互い豊かに暮らしつつ共存できるのかもしれない。群れをなして泳ぎ回る魚達の種類や生息数をざっと目視した僕は、浮上しようとした。

だがその時、目の前で泳ぎ回る魚達の群れが突然乱れた。(まさか…!?)
そのまさかは、最悪の形で出現してしまった。ぐるり、と後ろを振り向くと、僕よりもずっと大きな魚影がこちらに近づいてくる。
斧かギロチンの刃のように横に伸びた頭部、その背後から巨大な刃のように存在感を誇示する背鰭は、今、自分の目の前に襲い来るそれがハンマーヘッド…シュモクザメである事を充分すぎる程に物語っていた。
僕は、幸さんとの約束どおり、腰に巻いた命綱を三回引っ張る。一回が浮上の合図、二回が浮上できない何らかのトラブル、そして三回引っ張る合図はサメの襲撃であった。ここ数年、漁師や海女がサメに襲われる事は滅多になかったのだが、昨今の地球温暖化で海で何が起きるか判らないから…そう念のため取り決めていた事が、まさかいきなり使う事になるとは…。

「で、でも。もし本当にサメに襲われたらどうするんですか? 水中で襲われたら、いくら幸さんでも…」
そう心配する僕に、幸さんは笑って見せた。

「なあに、うちにとったらフカらぁて相手になりはしやぁせん。海はうちの得意な世界やきね…フカよりも」
フカよりも得意だ、と言ってのけた幸さんの笑顔は、力強いというよりむしろ獰猛にさえ感じられた。


どぼん。

水音が辺りに立ち込め、泡が僕の上方で湧き上がる。幸さんの浅黒い肌が泡の中で映えるのが見えたが、
幸さんは明らかに素手で飛び込んできた。そんな、水中銃はおろか、銛さえなしにサメと戦うなんて無謀すぎる!

と、幸さんがこちらを向いて水中でゆっくりと口を開いたかと思うと、瞳が赤く光った…ように見えた。
見えた、というのは次の瞬間、なにか耳を裂くようなキーンとした音と共に、僕は意識を失ってしまったから。

いや…それでも僕は見た…というか、感じたような気がする。今朝、岩の割れ目に手を挟んだときに助けられたのと同じように、黒く力強いなにかに抱え上げられて水を出た事と、そのまま水中に踊り込んだその何かが、船の上からでも判るような強力な振動…海水も空気もお構いなしに引き裂く鋭い音が木霊した瞬間を…。



気が付くと、幸さんはまた、僕の顔を覗き込んでくれていた。僕が目を覚ましたのに気付くと、すまなそうに謝ってきた。
「ごめんな…、フカがあげな近くに来るとは思わなかったがやか。うちの驕りのせいでおっとろしい目に逢わせてしもうたがよ」
「い、いえ…僕も無茶しちゃいましたし…そ、それより! お怪我はありませんか!?」

サメに対して素手で飛び込んで、幸さんは無事だったのだろうか。その問いに対して、幸さんはあっけらかんと答えた。

「ああ、フカにちぃくと右…脚を噛まれたが、かすり傷ぜよ。止血も終わっちゅうきに、心配は要りやぁせん」
言われて右脚を見ると、包帯が巻かれてうっすら血が滲んでいた。
僕のせいだ。僕のせいで、幸さんに怪我をさせてしまった。その事が、無性に悔しく、悲しく…

起き上がって拳をぎゅっと握り締める上から、ぽたり、ぽたりと涙が溢れて来てしまった。僕さえもっと慎重なら、この女性(ひと)にこんな痛い目に遭わせることも無かったんだ。自分の不甲斐なさと愚かしさに対する怒りは
年甲斐もなく涙を溢れさせた。その時、目元にしなやかで暖かなものが当たるのを感じた。幸さんの、指だ。

「郁人、おまさんも男の子なら泣いてはいかんちやよ。それに、この位は薬草のお蔭で怪我の内に入らんきに」
そう優しく語りかけながら、涙を拭ってくれる。この海のように、静かに染み透るようなアルトの声が、僕の心に染み込み、怒りや悲しみを拭い去ってくれるようだった。どうして幸さんの声は、こんなにも僕を力付けてくれるのだろう?
ぽんぽん、と優しく背中を叩いてくれた幸さんはやがて立ち上がり、一度港に戻る事を告げた。

「あの、幸さん」
「なんなが? うちは怪我怪我のことは別に気にしちゃあせんよ?」
明るく微笑む幸さんに対して、僕は決意するように切り出した。

「あの…なにか、僕からお詫びとか、お礼とかは、できませんでしょうか…?」

僕の言葉と表情に、一瞬幸さんは驚いたようだったが、直ぐにいつもの笑顔に戻って告げた。

「別に気にしちゃあせんから気に病むことはないけれど…そうやき、魚は獲れたから夕食を作ってくれやーせんか?」

その言葉に僕は全力で頷いた。でも、女性の…その、玉のお肌に怪我までさせてしまったのだから、もっと他にも出来ることはないだろうか? そんな僕の心の中を見透かすように、幸さんは言葉を続けた。

「それから…そうやき、夕食の後に手伝おて欲しいことがあるがやき、その時にゆうぜよ。そん時は頼むがよ?」
その言葉にも全力で頷く僕だった。ただ、その時に幸さんが、うっすらと頬を染めていた事の意味に気付くのは、その夜だった。
「うーん、郁人はまっこと料理が上手やき。料亭の料理人にでもなれるがやないかね?」
「はは…僕、海に行ったときに、良く釣った魚をさばいてたりしてましたから。」

幸さんの家は瓦葺のなかなか風情ある和風建築で、高校までは北関東のマンション住まいで大学時代は都内のアパートと一戸建てに縁遠かった僕にしてみれば、母方の実家以外では初めてお世話になる一戸建てということもあって「凄い…幸さんの家って旧家なんですか?」と思わず素直な感嘆が口を突いて出たのだが、幸さんが言うには「こがなあばら家は、旧家の内にゃ入りやあせんよ」という事らしい。数年前にご両親を亡くされて一人暮らしという事で、田舎の住宅事情って贅沢なんだな、と都会っ子の僕はただただ驚きながら、案内された台所でクーラーボックスに詰まった 今日の漁獲をひたすら三枚に下ろし、刺身に作っていた。

カワハギの仲間は皮を剥き、薄作りにして肝を添える。クロメジナ、イサキ、マアジといった土地の白身魚も切り身をつまみ食いしてみて判ったのだが、鮮度の良さに海の豊かさが手伝って、その身の弾力と、一本筋が通っていながら嫌な癖の全く無い味がする美味しい魚ばかりだ。どれもこれも、醤油をつけるのもちょっと躊躇われるくらい美味しい。
…そう言えば母の実家はここからそう遠くない筈なのだが、どうしてこんなにこの島の魚は美味しいのだろう?

いや…幸さんの、幸さんが獲って来た魚だからかな。

そんな他愛もない事を考えながら刺身を大皿に盛り合わせていく。三枚に下ろしたアラも炙ってから背骨を断ち割って、酒と薄切り生姜と軽く煮込んで出汁を取り、漉してから昆布をさっと泳がせ、白髪葱と地元の干し天草を散らして潮汁に仕立てる。
塩味はほんの少し強めにしよう。海で動いて疲れてるだろうし、幸さんも怪我を…そこまで考えて手が止まってしまう。

やっぱり、自分のせいで幸さんに怪我をさせてしまった事が、心の中に小骨のように刺さっていた…いや、小骨というより太い骨がざっくりと喉に刺さってでもいるような、そんなつっかえを感じていた。そんな事を考えていると、潮汁が煮立ってしまい慌てて火を止める。煮立たせすぎては干し天草と白髪葱に火が通り過ぎておしまいだ。

(怪我をさせてしまったからこそ、料理で埋め合わせをしてるんじゃないか。それに、夕食後に手伝って欲しいと言われた用事だってあるんだ。今はとにかく、自分が出来る事をとにかくきちんと勤め上げよう)

そんな葛藤を知ってか知らずか、僕の作った刺身の盛り合わせとアラの潮汁を居間の食卓に並べると、幸さんが僕にご飯を盛ってくれて、なんだか幸さんと新婚生活を送っているみたいでドキっとした。

「いやあ、しょうまっこと旨いやか! 普段釣っちゅう魚が、こがあ美味しくなるとは思ってもみんかったがよ。あっはっはっは!」

幸さんは僕の料理を口にするたびに嬉しそうに笑い、見る見るうちに平らげていく。ここまで食べっ振りのいい人は大学の学食で超特盛りカレーを平らげるアメフト部の人たちを横目に見て以来だが、ここまで嬉しそうに、美味しそうに、そして綺麗に、綺麗な人が平らげていくのは見たことがない。…まあ、特に最後の条件が一番見る機会が少ないのだが。

幸さんが三杯目のご飯を食べ終わり、四杯目を茶碗に盛り付けて、大皿の刺身が三分の一ほど無くなった頃、

「幸さんは普段お酒は飲むんですか? 冷蔵庫に一升瓶がありましたから、ちょっと気になって」

一升瓶の中身は三分の一ぐらいしか残っていなかった。その名も「純米・酔ひ鯱」と描かれた日本酒の瓶からすると幸さんはお酒を飲むのだろう。もしかすると酒豪なのかも知れない。…もしかして、怪我の事があるから
酒を控えているのではないだろうか。心に刺さった棘が、きりきりと痛む。
「そうやき、普段はちぃくと酒を飲みゆうが、今日は郁人の前で酔い潰れちゃ悪ぃからのう、控えちゅうよ」

幸さんの笑顔は屈託なく、この明るさと優しさに甘えてしまってもいいのかも知れないと思えた。それでも心の棘はきりきりと刺さったままな一方で、何時までも怪我のことにこだわっていてはせっかくの幸さんとの時間を暗い雰囲気に変えてしまうという悔しさも心にずきりと突き刺さる。
そんな自分のうじうじとした性格が一番恨めしく思えた。…と、幸さんがすっと立ち上がり、僕の横に屈み込んで、ぽんぽん、と頭を叩きながら微笑んだ。

「…めっそう気にしやぁせきいいよ。ほがな顔をしやあせき、せっかくの色男がちゃちゃぜよ?
それにこの位の傷で酒は控えあせんよ。なにしろ酒は百薬の長とゆうきに。あっはっは!」

この人の底抜けの明るさと包容力は、まるで幸島の海のようだ。どこまでも明るく、広く、小さな僕を抱擁してくれる。まるで、今朝僕を助けてくれたシャチが、力強く僕を抱き留めてくれたように。

「…ありがとう、ございます」
「どうしたがなが、お礼をゆうのはうちの方ぜよ。こがに美味い料理、どこぞの料亭でもよう食べられやせんが。
とは言うたち、うちは料亭らあて行ったことはないから想像やけどね。あっはっはっはっは!」


幸さんの言葉に、僕も釣られて笑った。こんなに屈託なく笑うのなんて、随分久しぶりだったような気がする。
二人でひとしきり笑った後、幸さんは自分の席に戻りながら僕に告げた。それにしても、幸さんは大きいと思う。
心も、背丈も、…それと…おっぱいも。

「…さて、夕食後のお礼やかけど、食べ終わったらお風呂を沸かすがやき、
沸いたら話すぜよ。それまじゃあ、狭い家やけどゆっくりしとおせ」
「あ、だったら夕食の後片付けと、洗い物をしておきます」

僕の提案に幸さんはうなづき、結局僕らは刺身を全部とご飯を五合分、そして潮汁を半分以上平らげて幸さんはお風呂を沸かしに行き、僕は洗いものと台所の片付けに追われた。もっとも、こんな楽しい洗い物は人生で初めてだったが。それにしても幸さんが手伝って欲しい事って何だったんだろう。



「郁人ー、風呂が沸いたきにー。うちはうちはあばら家やけど、風呂は立派ながが自慢ぜよ」

がらっと障子を開けた幸さんの言葉を待っていたように、僕は風呂に入る準備をしていた。
なんだかお風呂までお世話になるなんて悪いな、なんて思っていると、

「それで郁人、さっそくじゃが手伝って欲しい事があるぜよ」
「はい、なんでしょう?」

網の手入れでもするのだろうか、それにしてはお風呂を沸かすというのも変だなあ、なんて思っていると
まさか予想もしなかった ―本当は、心のどこかで期待していたのかも知れないのだが― 言葉が返ってきた。
全く屈託のない、あの笑顔と一緒に。


「うちと一緒に、風呂に入ってくれんか?」


「え…え、えぇぇぇぇぇぇ!?」