クリスティナ


基本情報


略歴

帝国高級官僚チャールズ・ウェイクロフの長女。1514年に士官学校を首席で卒業し軍官僚となるが、同年11月に父が軍事物資横領で処刑(実際は冤罪)されると、連座で獄に繋がれ、鬼哭の谷周辺に位置する流刑地に幽閉された。後にクレアクライシスによって保護されると、守矢桔梗らの知己を得て、1518年7月にクレアクライシ ス軍の幕僚に名を連ねる。
その後クレアクライシス軍の機構改革を実施。後方支援体制の確立をはじめとする軍の近代化を成し遂げ、ラコルニア帝国との戦いにおいて自分が作り上げた後方支援体制の維持運営で辣腕を揮う。
政治家としては多数の実績を残したが、ラコルニア帝国仕込みの合理主義的な改革の数々や、自身の無神論的言動の数々、そして帝国との和平提唱が原因となり、国内の宗教右派との間で政治的衝突を繰り返し、1527年にクリスティナをはじめとする和平交渉の担当者達を誘拐する事件(「沈黙の14日間」)が発生する。事変後、クリスティナは首謀者の一部であった15人を流感に見せかけて暗殺(暗殺の事実が判明されたのは彼女の死から400年後)。
翌1528年にクレアの独立とラコルニアとの和平が実現する。その後長男リチャードをレアルーシ帝の養子に出す。リチャード(リック)即位後、彼女は大使職を退くとラコルニア国籍を取り、帝立院院長に就任。1547年に乳癌で薨去するが、皇帝リックの抑え役の1人でもあったため、その死はリックとレアルーシの対立をエスカレートさせる原因の1つとなった。

人物

  • 母方の祖先にエヴェリーナ・ミュンスターが存在する。
  • 彼女はクレアクライシスの法整備・軍機構改革を行い、ラコルニア帝国との和平交渉でもキーマンとなるなど、16世紀におけるアレシア大陸の政治・国際情勢に深い影響を与えた。そのため、クリスティナによる施策の数々は、歴史・法制度史など学術研究の分野においては、各国元首による統治やテレーゼ・バッハナハトなど各国文官による経済政策と並び、重要な研究テーマの1つとして挙げられている。
  • しかし、その経歴・言動の特異性などが災いし、彼女に対する感情的な評価は好悪2つに分かれている。また、17世紀以降のクレアクライシスでは、彼女は「世俗主義」「政教分離主義」の代名詞的存在となり、時の政権によってその評価が変化することもあった。そのため、オペラ『The End of ELEGY』など後世の戯曲・映像作品では、クリスティナ役は「技術的な要因以外の理由により演じるのが難しい役」と言われ、役者が政治的理由で出演を辞退することもあったと言われている。
    • ただし、彼女の役を演じることが難しいのは政治的な理由だけではないとの説も複数存在する。その中には、「誘拐・監禁されるシーンなど、演者に強い肉体的負荷を強いる場面が多いからだ」という指摘も含まれている。

関連項目


最終更新:2011年04月22日 15:09