概要
戦闘に至るまでの背景
バルディゴス討伐連合軍解散後、もともといくつかの国で国境を巡っての小競り合いもあった緊張状態の各国は、本格的な武力衝突へと一気に加速していった。
それは、まるで連合軍として戦い、戦場で何万という血を流したことが、それまでかろうじて理性を保っていた「乱世」へ踏み込むきっかけとなったかのように、にらみ合いで済んでいた国ですら本格的な戦乱へと足を踏み込んだ。
最も早く動き出したのは、かねてよりこの戦乱の時代の到来を待っていたとも思われる
シャリアル国の若き国主
メスローであった。
連合時代に軍事的才能のなさを看破された隣国
イージル国の
キャルスに向かって攻撃を開始、便乗して西の
アル国、北の
バルド国まで侵攻を開始し、僅か一年にして
イージル国は存亡寸前にまで追い込まれた。
イージル国は、軍師
レニースの進言により、
バルド国に同盟の使者を送るが、
バルド国国主
ボルゾックと軍師
デスレーダは、滅亡を目前としながら「同盟」という同格の存在に立とうとする
イージル国を許さず、
キャルス本人が出向き、軍門に下って属国になるなら援軍を出すと返答した。この回答に、
キャルスは大いに怒り、周囲の将が止めるのも聞かず、残された軍勢を
バルド国に出陣させようとする。
もはや国主を見限った数多くの将がこの出陣要請を無視して他国へと走り、
バルド国への出兵どころではなくなった
イージル国軍に、
メスロー自らが
シャリアル三牙王を従えた主力部隊を率いて攻め込んでくる。あてもなく逃亡をはじめた
イージル国軍だが、シシリス盆地で追いつかれ、
イージル国最後の戦いが始まることとなる。
両軍の戦力
戦闘経緯
この戦いを、正式な「戦い」として戦史に残すべきか、それは、未だに歴史学者によって意見が分かれるところである。
戦いとは、互いに布陣し、作戦を立て、そして決戦へと赴くもの、奇襲や夜襲による一方的な展開であったとしてもそれは戦いの中の行動である。
しかし、このシシリスの戦いは、もはや流浪の避難民に等しい
イージル国軍に、
シャリアル国軍が追いつき、戦わずして
イージル国の将兵を四散させただけである。結局3000人いた兵力(ちなみに、
蜉蝣戦記における兵数とは、兵站部隊、輸送部隊といった後方の兵員も全て含めている。同じ兵数でも、純粋に戦闘参加者だけを記載した
六界戦争とは異なる)も、7月12日に
シャリアル国の先陣
フォールが戦場に到着する頃には、次々と脱走し、1000を切る程になっていた。
この、国に殉じようとした1000人の兵も、
シャリアル三牙王、
フォール、
ガルダ達が完膚なきまでに打ち破り、戦場に留まった軍師
レニースを生け捕る。更に、馬車で脱出しようとした国主
キャルスとその妻子も退路を断たれて囚われ、
メスローの目前に引き出された。
自らを臣下にせよと訴える
キャルスであったが、
メスローはただ一言「使えない者はいらない」とだけ言い、
キャルス、
レニース、そしてその妻子を悉くシシリスにて処刑した。
その後、
イージル城は
シャリアル国によって制圧され、以後はシャリアル領土となるが、周辺の町の数箇所は
メスローの命令で、略奪が許可され、兵士達の士気高揚の為、地獄と化した。
多くの群雄が、
バルディゴス討伐連合軍に参加したことにより、乱世への道が開けたが、
キャルスにとってのみ、この連合参加は道を閉ざすものであった。
戦いの結末
同じ連合軍に参加していた国が、僅か1年で滅ぼす者と滅ぼされる者になったという事実は、周辺諸国に衝撃をもたらした。
先に動かなければ倒される、という脅迫概念により、これより先、更に本格的な戦乱が巻き起こることとなる。
最終更新:2011年11月27日 19:56