コダン神殿の悲劇

概要

コダン神殿の悲劇とは、ルーイガルド10729年3月にル・マンティスクリートコダン神殿を攻め滅ぼした事件である。

事件に至るまでの背景

当時、ル・マンティスはクリート北部地域に南下し、支配地域を徐々にではあるが広めていた。しかし、その統治方法は改派を迫り、拒否すれば厳罰に処すというものだった。軍全体のモラルの低下もあり、その方針を悪利用して私欲、私怨を満たす者が後を絶たなかった。その過程でコダン神殿の悲劇は起こった、と「言われている」。
コダン神殿は、元々クリートの神殿だったが、領域内がル・マンティスの支配下に入ってからは表向きは恭順を示していた。しかし、ル・マンティスの一部勢力が、裏でクリートといまだ繋がっているとして軍事作戦を展開。神殿に詰めていた神官、司祭のみならず、下働きの使用人に至るまで皆殺しにした。

両軍の戦力

攻撃側 守備側

ル・マンティス国軍
軍勢
神殿兵
総兵力不明 兵力 総兵力不明
トレイン 総指揮 マオ
軍師
主要参戦者











戦闘経緯

ル・マンティス側で指揮を執っていたトレインの背後関係は判然としていない。クリート側で中心となって指揮を執っていたのは、当時神殿に在職中だったマオだと言われている。
正規の軍隊ではないコダン神殿の兵たちだったが、必死に抵抗してよく耐えたと言われている。しかし、この神殿の兵たちは、実は元クリート国正規兵が名を変えて残っていたとするのが通説である。
結果だけ見れば、途中からはル・マンティス兵による一方的な虐殺だった。

事件の結末

コダン神殿は完膚無きまでに破壊された。降伏した人間も残虐な方法で処刑されたと言われる。この事件により、ル・マンティスは周辺国からの非難を受け、内部からも非難の声があがった。
ただし、宗教施設の破壊はル・マンティス、クリート両国でこれまでも行われていたことであるし、このコダン神殿の悲劇も大規模であったが、最大級の事件というわけではない。もちろん、女神戦争中のこれらの行為に対する非難も、各国から出され続けていた。
この事件が特別に大きく取り上げられる背景には、後のシャクティアナの侵攻の際に、この事件のことが取り上げられたことが大きい。特にクリートはシャクティアナの侵攻に絡めて好んでこの事件について言及する。

ル・マンティス側でこの事件に関わったトレインは、その後、事件の波紋が広まるにつれ上層部から疎まれ最前線に立たせられるようになるが、それでも生き延び続けたために特別報奨金等を頻繁に受け取るという、本末転倒な展開になる。
また、クリート側でも、英雄と呼ばれながら第一次シャロッツ包囲戦以降、周囲との関係がうまくいってなかったフレイヤが、事件の対応を巡って部下との揉め事を起こし、罷免されている。

逸話等

  • 神殿を護っていた人間に多数のクリート軍出身者が混ざっていた事実(このような事態は両国間で続発していた)、恭順を示しながら裏では反抗作戦やゲリラ作戦の拠点の一つとなっていた可能性(これも両国の旧敵国支配域ではよくあった例)、助けを求められたクリート軍が援軍を出さなかったとする説(ル・マンティスに恭順を示した神殿に対する見せしめ、ただし陰謀論に近い)、ル・マンティスの一部勢力の暴走ではなく正式な軍事行動だったとする説(根拠薄弱)、そもそもル・マンティス軍のモラルの低下自体が捏造・歪曲・誇張である、など感情論に基づく誹謗中傷と反論が今も飛び交っている。
  • シャクティアナは、この事件のみを取り上げたわけではなく、「女神戦争と呼ばれる、永きに渡る戦争の悲劇の一つ」として、ル・マンティスとクリートの両国を非難する文脈の中で引用したにすぎない。ル・マンティス、クリート以外の歴史学者にとっては「規模と時期を鑑みて一番分かりやすい例を出しただけだろう」というのが通説である。
  • シャクティアナは純粋に侵略の意図もあることを取り繕わなかったが、征服する価値もないほど戦争で荒廃することを危惧したという思惑があるとはいえ、女神戦争を終結させたかったというのも事実だった。