第一次シャロッツ包囲戦

概要

第一次シャロッツ包囲戦とは、ルーイガルド10556年3月から行われた、クリートル・マンティスの首都シャロッツを攻略しようとした戦いである。

戦闘に至るまでの背景

ハンドレー要塞の戦いに勝利したクリートは、ル・マンティスの首都シャロッツを落とす機会を狙っていた。10556年に、ついに時期は来たと大規模な軍を派遣。首都でもありル・マンティスの聖地でもあるシャロッツ攻略に取りかかる。
一方、ル・マンティスはハンドレー要塞から引き上げた部隊、その他の地方から集めた部隊・物資を首都に集中・備蓄させ、何年も総攻撃に備えて準備を整えていた。

両軍の戦力

攻撃側 守備側

クリート国軍
軍勢
ル・マンティス国軍
総兵力不明 兵力 総兵力不明
総指揮
軍師
主要参戦者

ゲフェン










戦闘経緯

野戦及び城門・城壁での攻防戦の末にクリートは強引に城門を突破。市街地に雪崩れ込むが、戦略拠点を制圧しようとする指揮官、宗教拠点を破壊しようとする指揮官、シャロッツそのものを焼き払ってしまおうとする指揮官などが激しく対立し、指揮系統が混乱、分断する。

クリート軍が突入した日の午後。宗教拠点の破壊に走った部隊が壊滅。同刻、戦略拠点の制圧に向かった部隊がかろうじて議会堂や軍本部を制圧し、首都陥落を宣言するが、野戦から取って返してきたル・マンティスの将軍、軍本部制圧後も抵抗を続けていた指揮官などの独自の判断による反撃に遭う。

同日の夕刻。シャロッツそのものの「浄化」を望んだ一軍が、ル・マンティス軍を退ける。

同日の夜半すぎ。シャロッツ内最大の橋が崩落。上で戦っていた多数の両軍兵が落下し死傷する。

日が変わって翌日明け方。議事堂を制圧していたクリートの大将軍の一人が、ル・マンティスの攻撃に端を発した議事堂の崩壊に巻き込まれ部隊ごと戦死。

同日午前、クリートの「浄化」派の部隊が中央広場を占拠。

正午すぎ、クリート「浄化派」とル・マンティス軍が中央広場で正面衝突。

夕刻前。野戦においてクリートとル・マンティスの大規模な衝突。多数の犠牲を出すも決着はつかず。

この日の午前から、クリート軍から略奪等に走る者が目立ち始める。


同日夜。野戦の結果を受け、軍本部を制圧していたクリート軍がシャロッツからの撤退を決意。同刻、中央広場での戦いにル・マンティスが勝利。

同日深夜。クリート軍「制圧派」による大水道の破壊。出水によりル・マンティス軍の一部に混乱が生じる。

翌日朝。クリート軍のシャロッツからの撤退完了。野戦軍と合流。

同日昼。クリートとル・マンティスが郊外で衝突。双方共に多大な戦死者を出し、ル・マンティス側は一度シャロッツに戻る。一方でクリート側は撤退速度を早める。

撤退の最中も先回りしたル・マンティス軍の待ち伏せ作戦や強行軍による多数の脱落者のためにその数を減らす。この撤退中に味方を逃がす形でゲフェンが戦死している。

戦いの結末

クリートの強行突破のために野戦と市街戦が同時並行で行われることとなった。シャロッツ市街にも多大な被害が出たが、首都機能が失われることはなかった。また、特に重要な光臨の地(市街地のシャロッツ大神殿)は護りきったことはル・マンティスの誇りである。そのため、「陥落などしていない」という人間もいるが、議員のほとんどが殺され、軍本部もクリートに制圧されたことから、陥落と見て間違いは無いというのが通説である。
首都を落とすことだけにとらわれていたクリートの被害も大きく、その後の小規模な戦いも含めて国境線を旧来の位置まで押し戻されることになる。
また、ル・マンティスはこの戦いの準備段階で軍隊の中央集中体制を強化。その後もこれを維持し、それを南部にすべて投入したために、後のシャクティアナの侵攻に充分な対応できなかったと言われている。

最終更新:2011年05月26日 02:22