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画 2_106 "多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限りの現象"

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画 2_106 "多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限りの現象"
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  [106]多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限りの現象 渡辺 05/4/1(金) 0:21  
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  渡辺  - 05/4/1(金) 0:21 -  

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   この投稿は、「問答有用」板へ投稿した、日本軍の残虐・暴行写真の一部で、
30424『日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期』2004/10/29
への追加記事ですが、、こちらにも掲載いたします。
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日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期
多数の残虐写真の出現は1938年限りの現象

 前稿の「(1)写真の出現した時期」で述べたように、日本軍の残虐・暴行行為を写した多数の写真が現れたのは、1938年であり、China Weekly Review 10月29日号を境に、新しい残虐写真が雑誌や新聞に掲載されなくなった。
 まず、写真が1938年1月から掲載され始めた理由は、南京が陥落し、戦闘が一段落して写真を撮影したり現像する余裕がでるようになり、その写真処理の過程で斬首などの残虐写真が写真店から流出したり、あるいは販売された結果である。
 次に、1938年10月末以降に新たな残虐写真が現れなくなった最も大きな理由であるが、日本軍の残虐・暴行写真が海外のメディアに掲載されたので、日本軍でなんらかの対策がとられた結果、写真が現れなくなったものではないかと前稿では書いた。その根拠の一つは、上海で当時ニューズキャスターをしていた Carroll Alcottが、日本軍当局によって残虐写真の販売が禁止され、後に撮影も禁止されたと著書に書いていることであった。[1]

 その後、日本の公文書の中に戦地での写真撮影に関するものがないか調べたところ、1938年10月24日付で「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」が中支那派遣軍によって定められたことが分かった。[2]
 この規定では、戦地で軍人軍属が撮影した写真により軍機が漏れることを防ぐ目的だけではなく、「 殘虐性ヲ感セラルル寫眞」、「不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞」、「國際法違反ト感セラルルモノ」などを「逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ」として撮影禁止している。その上、現像焼付の項を設け、憲兵指定の邦人の写真店で必ず日本人が処理を行うことや、没収された写真の費用負担、あるいは規定違反の写真の発見者には通報義務だけでなく、その写真が「散逸」しない責務があることなど、こと細かく規定している。
 規定が、写真店の現像焼付処理について細かく規定していることから、戦地で撮影された写真が写真店から流出していたこと、写真店で働いていた中国人が余分の写真を持ち出していた事実が背景にあったことが推察される。
 Carroll Alcottは、残虐写真の禁止という側面のみから見ているものの、1938年当時の状況を正確に記述していたわけである。また、この規定が10月末に定められたことと、China Weekly Review の同じ月の29日号を最後に同誌が残虐写真を掲載しなくなったことは、偶然の一致ではなく、残虐写真が10月末に上海から消えた結果と言えよう。
 結局、日本軍の残虐写真が多数現れたのは、1938年限りの現象であり、戦地での写真撮影の規制や現像処理への取締りにより、あらたな日本軍による残虐写真が生産されなくなった事実が、Carroll Alcottの証言と中支那派遣軍の取締規定によって説明されるのである。

-- 脚注 --
註:[1]Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, p.304
---
 写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。
 彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。
 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。
<一部省略>
 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。
 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。(引用者訳)
[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]
---

註:[2]「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」(昭和13年「陸支密大日記59号」)
出所:アジア歴史資料センター レファレンスコード:C04120598600
---
 陸軍省受領 陸支密受第一二一六五号
 昭和十三年十月二十四日
<一部省略>
軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締
規定本冊ノ通定ム
 昭和十三年十月二十四日
    中支那派遣軍司令官 畑 俊六

軍人軍属寫眞撮影製作取締規定
  第一総則
一、本規定ハ軍隊及軍人軍属ノ寫眞(活動寫眞
ヲ含ム)撮影竝製作ニ關シ必要ナル事項ヲ
規定シ軍ノ機秘密ヲ保護シ且軍ニ不利
ナル宣傳材料ヲ外人ニ獲得セラレ若ハ
日本国内ニ配布セラルルヲ防止スルニ在リ
二、各隊長ハ部下ノ寫眞撮影及製作ノ取
締ニ關シ責任ヲ有スルモノトス
   第二撮影禁止
個人ニ於テ撮影ヲ禁止スヘキモノ左ノ如シ
一、軍ノ機秘密ニ關スルモノ一切
 イ、機秘密兵器資材ニ指定セラレタルモノ
<一部省略>
二、逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノ
 イ、殘虐性ヲ感セラルル寫眞
 ロ、不軍紀ナル状況ヲ感セラルル寫眞
   若ハ日本軍ノ戰意ヲ失ヒタルカ如キ感ヲ
   抱カシムルモノ
 ハ、國際法違反ト感セラルルモノ(外國権益地内ニ
   於ケル行動等)
 ニ、<省略>
 ホ、戰死傷者ノ寫眞ニシテ悲惨ナル感情ヲ
   惹起セシムルモノ
 ヘ、支那軍ノ宣傳用傳単若ハ文章ヲ
   撮影セルモノ
   第三現像及焼付
一、現像及焼付ハ部隊内ニ於テ行フカ若ハ其
  地ノ指定寫眞店ニ於テ行フモノトス
二、指定ノ寫眞店ハ軍人軍属ノ寫眞ハ必ス
  日本人ノ手ニ依リテ處理(現像焼付)ヲ行フモノトス
三、部隊ニ於テ撮影セルモノノ中本規定第二ニ示
  セル事項ニ該當スルモノヲ現像若ハ焼付ヲ
  行フ場合ニ於テハ軍ノ寫眞製作所ニ於テ
  行ヒ市井ノモノニ註文セサムルモノトス
  状況己ムヲ得ス市井ノ指定寫眞店ニ依
  托セントスル場合ニ於テハ必ス監視者ヲ製作
  現場ニ配置シ監督セシムルモノトス
四、寫眞ノ處理ヲ依托セントスルモノハ所属部隊
  及階級氏名ヲ寫眞店ニ告クルモノトス
  寫眞店ハ右事項及處理事項ヲ記録シ置
  クモノトス
五、寫眞原板ハ依頼者ニ全部返付スルモノトス
  又焼付ノ過数ハ總テ焼却スルモノトス
六、寫眞店ハ原板中機秘密ニ属スルモノ若
  ハ逆宣傳ニ使用セラルル虞アルモノヲ發見
  セル場合ニハ直ニ最寄憲兵部隊ニ届出
  テ其指示ヲ受クルト共ニ該寫眞ノ散逸セ
  サルコトニ責任ヲ負フモノトス
七、指定寫眞店ナキ場所ニ於テ寫眞現像焼
  付ノ處理ノ必要アル場合ニ於テハ部隊毎ニ
  取纒メ確實ナル監視者ヲ附シ處理ヲ
  監督セシムルモノトス
   第四寫眞店の指定
一、憲兵ハ其地ニ於ケル日本人寫眞店中適
  當ナルモノヲ指定寫眞店トナシ
  之ニ其ヲ付輿ス
二、<省略>
三、指定寫眞店ハ見易キ位置ニ「陸軍指定
  寫眞店」ノ標札ヲ掲クルモノトス
   第五檢閲
一、指定寫眞店ニ對シテハ憲兵ハ随時檢
  閲ヲ實施スルモノトス
二、取締上必要アリト認メタル寫眞ハ憲兵
  ノ各隊長ハ製作ヲ禁止シ又ハ没収ス
  没収セル寫眞中宣傳ニ利用シ得ルト認ム
  ルモノハ憲兵ヨリ報道部ニ送付スルモノトス
三、指定寫眞店以外ニ於テ處理セル場合
  ハ該寫眞ハ凡テ没収スルモノトス
四、没収セル場合ニ於テハ之カ證票ヲ寫眞
  店ヲ通シ依頼者ニ交付スルモノトス
五、没収セラレタル寫眞ノ代金ハ没収ノ證ア
  ルモノニ限リ依頼者ヨリ支拂ヲ受クルコトヲ得
   第六報告(通報)
一、<省略>
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[117]Re(1):多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限...  
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  ピッポ  - 05/4/2(土) 12:30 -  

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~添付ファイル~  
・名前 : CWR380813s-4.jpg
・サイズ : 6.2KB


  
この写真は、
以下に引用するためにアップしたものです。
CWR, August 13, 1938, p.349の1枚。
渡辺さんの投稿より切り出したものです。
東中野本P92、写真15に対応します。
そこでは、「外人目睹中之日軍暴行」初出、となっています。



渡辺さん

勝手ながら、渡辺さんが"前稿"とおっしゃるご投稿を転載させていただきます。
といいますのも、かなり重要な論考であり、いくつかお尋ねしたいことがあるからです。
お許しください。なお、table タグが使えませんので、レイアウトを少しかえました。

渡辺さんのこの投稿は、東中野本の後半の論点「趣向をこらした追加写真」における、「16枚の写真集」や「マリオン・フィッチの写真群」、それから熊猫さんも論じておられる「上海在住の日本人プロ写真家」と残虐写真流出ルートとしての「写真館」の存在。これらを考察する鍵となる投稿ではないかと、思うわけです。




(以下 転載)
================================================================
渡辺さんの投稿
問答有用30424 2004/10/29 12:32
日本軍の残虐・暴行写真 (1)写真の出現した時期
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=30424&range=1
================================================================

この投稿は日本軍の残虐・暴行写真http://bbs2.otd.co.jp/mondou/bbs_thread?base=30423&range=1の一部です。

---
(1)写真の出現した時期

日中戦争での日本軍の残虐・暴行写真が新聞・雑誌などに現れた時期であるが、1937年にAPが配信した銃剣や刀の練習にされる中国人の写真が恐らく最初のものであろう。これは、LIFEやChina Weekly Reviewにも掲載された。しかし、多くの残虐・暴行写真が現れたのは1938年限りの現象とみられる。今日、真贋が話題となる写真も、ほとんどがこの年に現れたものである。
1938年になって、このような写真が現れたのは、1937年12月に南京が陥落し、日本軍将兵に写真を撮影したり現像する余裕ができたこと、また、1938年1月に南京で撮影されたマギーの映画が上海に持ち出されたことなどが要因であろう。
このような写真が 1939年以降に新たに出なくなった理由について、今回は充分考察することはできなかったが、その理由はいくつか考えることができる。上海では、現実の日本軍の脅威や、日中のテロの応酬などの事態が深刻化した。また、欧米では緊迫する欧州情勢に関心が強かったことなどが残虐・暴行写真への関心を、少なくとも日本の対英米戦争が始まる 1941年まで弱めたと考えられる。しかし、最も大きな理由は、日本軍の残虐・暴行写真が海外のメディアに掲載されたので、1938年に日本軍でなんらかの対策がとられた結果、新たな写真が現れなくなったものとみられる。上海で当時ニューズキャスターをしていた Carroll Alcottは、日本軍当局によって残虐写真の販売が禁止され、後に撮影も禁止されたと述べている。[1]

次に、1937年から1938年の間に現れた残虐・暴行写真の実例をあげてみよう。なお、CWRとあるのは、上海で刊行されていた China Weekly Review のことである。本来は残虐写真とは無縁の週刊誌であるが、1938年については例外的にこのような写真が多く掲載された。なお、撮影場所が資料に記載されているものは、場所を表示した。また、他の写真との関係などについては概略のみとし、個別の検証は煩雑になるので別稿とする。
(この掲示板では、文章と表の間に空白ができるかもしれません。)


1.人体を使って剣・銃剣の練習をする日本兵の写真2枚 (ピッポ註1)

場所:天津
1)LIFE October 11, 1937, p.30
2)CWR, November 6, 1937, p.223


<br>
LIFE October 11, 1937掲載の写真, p.30

LIFEの写真説明によれば、APのカメラマンによって 9月5日に天津で撮影された。
CWRの写真説明によれば、CWR掲載の写真は、10月3日付 Chicago Tribune からの複製。
CWR解説記事によれば、APの編集長 Edward Stanley は、この写真はAPの在中国カメラマンが撮影した正真のものと述べ、この写真が日本人カメラマンによって撮影されAPにフィルムが売り込まれたという上海での噂を否定した。また、Editor and Publisher 10月2日号の報道では、the Chinese Section of General Staff の高橋担大佐(Lieut.-Col. Tan Takahashi) (ピッポ註2)が、ドイツへの途上、米国で、これは中国人が日本軍の軍服を着たものだと主張した。(CWR p.224)



2.南京の写真

場所:南京
CWR, March 19, 1938, p.15
(頁右上の写真を除く)


<br>

CWRでは撮影者は匿名になっているが、マギーの映画フィルムを写真にしたもの



3.ズボンを下げられた女性

外人目睹中之日軍暴行(国民出版) 1938年6月



<br>
左=外人目睹中之日軍暴行に掲載の写真
右=鉄証如山に掲載の写真、引用元は、日寇暴行実録(軍事事委会政治部)1938年7月 と思われる。



4.陸軍兵士 、海軍兵士による斬首の写真 3枚

1)外人目睹中之日軍暴行(国民出版) 1938年 6月

2)Ken Magazine, August 11, 1938

3)CWR, October 1, 1938, p.144


<br>
CWR October 1, 1938に掲載の写真

CWRには、Ken のものとして紹介されているが、Ken からの複製ではない。1),2),3)のいずれも、撮影の場所について記述がない。



5.銃剣での刺殺・斬首の写真 4枚

場所:南京



<br>

CWR, August 13, 1938, p.349 (ピッポ註3)
「日本軍自身によって撮影された残虐行為」(ATROCITIES-EXPOSED BY THE JAPANESE THEMSELVES)との見出しが付けられている。

(LOOKにも掲載されたが、まだ実物を確認していない。)


『日本の侵略』に掲載された、南京の兵站病院で勤務した坂本多喜二氏が撮影した写真と同じ場面を異なる位置から撮影したものと考えられる。
右下の写真は、呉旋証言にある「恥」と記されたアルバムに掲載されている写真と左右が逆であるが、同じものである。("GoodMan of Nanking", p.141 参照) (ピッポ註4)



6.溝に並ぶ市民の遺体

場所:蘇州

 
<br>
CWR, October 22, 1938, p.262



7.頭蓋骨と焼死体の写真

場所:南京


<br>
 CWR, October 22, 1938, p.262

 

8.斬首された首の列など写真 3枚

場所:南京


<br>
 CWR, October 29, 1938, p.281

 

註:[1]Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, p.304(ピッポ註5)

(転載おわり)
===============================================================================================

ピッポの註

(1)東中野修道「南京事件『検証写真』を検証する」P、161では、

写真99は、昭和12年(1937)年秋にAP通信社が「日本人の支那人虐殺」と題して配信した写真の1枚で、同年9月30日付で「デーリー・ミラー」紙が載せた写真と同一のようである。

と説明しています。

(2) http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=114;id=#atop

(3)東中野本では、初出は 「外人目睹中之日軍暴行」となっています。これが1938年6月発行だとすると、 CWR, August 13, 1938よりもずっと早いということになります。「外人目睹中之日軍暴行」には、漢口版と香港版があるということですが、渡辺さんと東中野氏(漢口版と記している)では違う版なのでしょうか?

(4)左右が逆には違い有りませんが、ネガを裏焼きして同じ写真を別の写真として使ったわけでは有りません。カメラポジションが反対側の全く別の写真のようです。<br>

<br>
なお、右の写真は東中野本のP92の写真15です。東中野氏によれば、撮影現場は同じでも「16枚の写真帳」には無いものです。"GoodMan of Nanking"にはどう書いてあるのでしょうか?

(5)渡辺さんの前投稿に訳文があります。

================================================================================================

以下は私ピッポの文章ですから、中てには出来ません。mOm


日本兵の残虐行為を写真に収めることができたのはなぜか?


1、それらは全て、中国側の演出・捏造である。中国兵に日本の軍装を着させて(真似させて)、欧米特派員などに撮影させたものである。(東中野説)

2、日本兵がカメラを中国戦線に持参し、記念に撮った。故郷に送ったもののなかにも、残虐・陵辱写真があった。それらを上海の写真館で現像したときに流出した。LIFEやChina Weekly Review、そうして中国側にも流れた。

3、撮影したのは日本兵とは限らない。上海在住のプロカメラマンが上海戦線を歩き回っていた。かれらは、
写した写真の顧客として、日本の新聞社、外国通信社、LIFEやChina Weekly Review、などがあり、また残虐エロ写真を売る露天商にも流した。<br>
<br>
(The Nanking Atrocities:http://www.geocities.com/nankingatrocities/index.htmより)
写真を売っているのかどうか分かりませんが・・・肩から提げた四角い革ケースが気になります。

4、上海の写真館は、今でいう「現地プロダクション」の役割を果たしていた。例の「宝山県日の丸部落」の組写真は、どうみても「パブリシティー」記事です。この記事のために雇われた中国一家、そうして彼らと会話が出来るカメラマン。「現地プロダクション」が下請け受注した「作品」ではないでしょうか? 同業者である私の直感です。(東中野本P,111~114参照)

5、2と3は、渡辺さんの前投稿にあるように、「軍隊及軍人軍属寫眞撮影製作取締 昭和十三年十月二十四日」によって統制された。


1は「妄想」かもしれず、2、3、4はまだ憶測ですが真実に近づいた方もいるようです。皆さんのご意見を伺いたいところです。

(以上、投稿おわり)

[管理人一回修正:HTML文法]


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[118]Re(2):多数の日本軍の残虐写真の出現は1938年限...  
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  ピッポ  - 05/4/2(土) 14:29 -  

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~添付ファイル~  
・名前 : 渡辺さんの投稿A..htm
・サイズ : 243.4KB


  
管理人様、お手数をおかけしました。
私の間違いを、ヘルプスレッドで教えてくだされば幸いです。

なお、写真の上下が、キャプションでは「左」「右」です。
この掲示板の特殊文法のようです。

念のため、HTMLを添付しておきます。


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[122]日本人のプロのカメラマンと上海の写真館  
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  ピッポ   - 05/4/2(土) 19:20 -  

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   渡辺さんの投稿より
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_reply?reply=30427

資料5:Carroll Alcott
(1938年から上海の放送局XMHAのニューズキャスターを勤めた。)


 日本人のプロのカメラマンのあるものは、非常に営利的な視点を持っていた。
愛国的な市民として、彼らは政府に対する軍の重要性を否定することを翻し、市場価値のある、しかし鈴木にとっては大した価値のない、そういう人達のいる側でビジネスをしようとした。

[Some of the professional Japanese photographers had an
exceedingly commercial point of view. As patriotic citizens
they turned over negatives of military importance to their
government, but tried to do business on the side with those
which had market value and were not of great value to Mr.
Suzuki. ]
[日本人のプロのカメラマンのあるものは、非常に営利的な視点を持っていた。政府に対して軍事優先政策反対者を克服して愛国主義者になった立場でありながら、商売上の市場価値をもつものに依拠した商売に挑んだ。 鈴木氏にとって、(もちろん)そんなものは偉大な価値でも何でもなかったのだが。(ピッポ試訳)]

 写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。

 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。それ以外にそのような行為を撮影することができた者はいなかった。なぜならカメラを持った中国人や外国人は処刑の場に1マイルと近付くことは許されなかったからだ。

 日本兵が、無力な中国人の頭のうえで自分の刀と共にポーズをとるのは、虚栄心がその原因だ。彼の視点から見ると、ほとんど必然的な行為なのである。
 日本の伝統によれば、刀というものは、それが大きな功績に出会わない限りは、飾りとして家の壁に掛けておくような武器ではない。それどころか、日本の青年が刀を手渡されると、やいばの目的は敵の血を流すという、刀に伴う作法をすっかり思い起こさせるのである。

 このことは、戦闘になると剣術をすることに熱意を燃やす理由を説明している。郷里での面子を保つため、頭を刎ねたり、体を突き刺す必要性を感じるのだ。
 かつては、自分の刀を血の海に浸したということを郷里の人々に証明するには、自分の言葉や同僚の言葉に頼らざるを得なかった。しかし、彼が偉大な戦士であることを示すためには、今や、行動中の自分の写真を送ることができるのだ。

 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。

 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。

[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]



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<sage>  

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[123]Re(1):日本人のプロのカメラマンと上海の写真館  
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  ピッポ   - 05/4/2(土) 20:04 -  

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   ▼渡辺さん

ここまできたら、
その次も転載させていただきます。

続編を期待しています。


渡辺さんの投稿
日本軍の残虐・暴行写真 (2)写真の撮影者・流出ルート
問答有用30427 2004/10/29 12:41
http://otd2.jbbs.livedoor.jp/mondou/bbs_plain?base=30427&range=1


(2)写真の撮影者・流出ルート

 日本軍の残虐・暴行写真は誰が撮影し、どのように流出したのかを、史料によって検証してみる。

 まず、岡村寧次(資料1)は、1938年8月末のこととして「戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付」と端的に述べている。児玉誉士(資料2)は、1938年のこととして、外務省の官僚から「日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真」を見せられ、「いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった」と、中国旅行の体験から暴行写真の正真性を述べている。また、John B.Powellの1945年の回想録(資料3)の内容は、岡村寧次の「戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付」と平行する。 更に、John B.Powellは、それらの写真が上海の写真屋から焼付けの際に流出していたと述べている。写真店から流出したという同種の証言として、呉旋証言(資料4)がある。日本兵の依頼により焼付けの際、南京の写真屋で働いていた羅なる人物が余分に焼付して持ち出したとする。[1]

 Carroll Alcott(資料5)は、John B.Powellの回想を裏付けるように、写真の撮影者が日本人で、写真屋から流出したとしている。Carroll Alcottの記述で、興味深いのは、撮影者にプロのカメラマンがいたこと、また、彼らのもとで働いていた浪人からCarroll Alcottが写真を購入したとしていることである。確かに、残虐写真の中には撮影位置や構図も素人にしてはよくできていると思われる写真がある。

 佐藤振壽氏(資料6)も、写真が日本の軍人によって撮影されたものとしている。日本軍の残虐行為を告発しようとした中国人によって写真が流出した可能性を述べているが、これは実体験によるものではないらしい。

 では、残虐・暴行写真を収集した中国側の資料は何と言っているであろうか。中央宣伝部副部長であった董顕光の、1938年5月6日付蒋介石宛て報告(資料7)の中で、暴行写真は「日本軍人が戦争地域で撮影し、上海に送って現像され、小職所属部によって、紆余曲折の後、捜しあてられたものである」としている。従って、中国側の当時の機密文書でも、宣伝に使われた暴行写真が、日本軍人によって戦地で撮影されたものであり、上海で入手したとしているのである。

 以上の資料・証言を総合してみると、残虐写真・暴行写真が日本人によって撮影されたという点については一致している。撮影者は日本軍の兵士だけではなく、Carroll Alcottが言うように、プロのカメラマンが撮影したということは考えられる。一方、実際問題として中国人や外国人のカメラマンが撮影したとすることは困難である。董顕光が「第三国人」としているのは、マギーのフィルムから作られた写真のようなものを指すのであろう。

 写真が流出したルートについて述べている資料では、写真店から現像・焼付の際に流出したという点について一致している。ほとんどの場合は上海の写真店が流出元としている。また、Carroll Alcottはプロのカメラマンによって撮影されたものが営利目的で売られていたともしている。

 これに対し、写真が捏造、あるいは改竄されたことを示唆する資料は見つけることができなかった。あえて言えば、1937年にシカゴトリビューンに掲載されたという天津の写真について、CWRの記事に、高橋大佐が中国人が日本軍の制服をきたものと発言したことが伝えられている。しかし、本物の残虐・暴行写真が上海で入手できるのだから、わざわざ偽の写真を作る必要はなかったと考えるべきであろう。

 問題は、それらの写真が日本軍の実態を示す写真であったとして、果たして撮影場所が特定できるかといういうことである。特に目印となるようなものが写っていない限りは、撮影場所は撮影者自身にしか分からないはずである。しかし、別稿として述べるが、CWR 1938年8月13日に掲載された銃剣で捕虜を刺殺している写真には、撮影場所を南京と明示しており、別の同じ場所を写した写真から、この写真は確かに南京で撮影されたと考えられる理由があるのである。日本人のプロのカメラマンが介在している場合は、撮影場所や状況といった情報が購入者に与えられたかもしれない。また、焼付けをした人は同一ネガの他の写真から撮影場所を知り得たり、焼付け依頼者から撮影場所を知り得たかもしれない。撮影場所などの情報も、写真の購入者が知り得た可能性は考えられるであろう。

 なお、撮影場所が不明なために、誤用された写真については、次の稿で触れておきたい。

註:[1]呉旋証言にあるアルバムの写真の一枚が、チャイナ・ウイークリーレビュー 1938年8月13日号に掲載された南京の捕虜斬首の写真と同じであるので、この件は別稿として解説したい。


== 資料 ==

資料1:岡村寧次
(1937年12月、参謀本部附、上海駐在武官、1944年11月から敗戦まで、支那派遣軍総司令官)

 
<引用者註:「前項」は、1938年(昭和13年)についての記述。>

 前項(八月二十三日)以降九月までの間における所見次のとおり。
 <途中省略>
 (四) 来陣した中村軍務局長の言によれば、戦地から惨虐行為の写真を家郷に送付する者少からず、郵便法違反として没収したものすでに数百に達しているという。
 好奇心も甚しいというべし。
 [稲垣正夫編「岡村寧次大将資料(上)」原書房、昭和45年、 pp.302-303]



資料2:児玉誉士夫
(戦前、急進愛国党員、戦争中「児玉機関」を組織して物資調達、戦後にA級戦犯となる)


 <引用者註:1938年の中国旅行についての記述>

 自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、外地を旅するに必要な援助と注意をうけたが、そのとき河相氏が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、いろいろなできことに直面してみると、この写実は真実であることを肯定せざるを得なかった。

 当時、大同では、「大同に処女なし」という言葉があったが、この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。<途中省略>

 満州事変以来、国防国家の確立に名をかりて政治権力を獲得することに狂奔してきた軍の首脳部は、部下にたいする統御力をしだいに失ってきていた。陸軍大臣が中央にあってロボット化されていたと同様に、軍首脳部もまた現地軍を統御できなかった。そして現地
軍の幹部は将校、兵士の非行を取締るには、あまりにもその行いは威厳を失墜するものがあった。[児玉誉士夫『われかく戦えり』広済堂出版、pp.78-79]




資料3:John B.Powell
( China Weekly Review の主宰者)


 日本人自身によって撮影された、日本兵によって斬首される中国人を写した おびただしい数の写真もまた、私は見た。それから、中国人女性の不快な写真を私は一枚持っていたが、その犠牲者の体の傍らに立っている二人の日本兵に強姦されたのだ。日本人はお互いに写真を撮りあうことが非常に好きで、彼等自身の残虐な行為でさえ撮影する誘惑に抵抗することができなかった。私はそれらの写真を、ある上海の朝鮮人の写真屋で手に入れたが、現像のためにフィルムがそこに送られていたのだ。明らかに、兵士たちは日本の郷里の友人にそれらの写真を送るつもりであった。いかに彼等の非人間的な行為が、現代の戦争の規範や常識的な日常の道徳から逸脱していようと、日本兵には、まるでそれらに対して感情がないかのように思われた。

[John B.Powell, "My Twenty-five Years In China",p.308]



資料4:呉旋(聞取り証言)
(1941年、通信隊の学生時代に入手した写真帳が、戦後に軍事裁判の証拠となった。)


 一九四一年春のある日、呉さんは毘盧寺構内にある便所に行く道すがら、草むらから一冊の写真帳を拾った。<途中省略>この写真帳の表紙とそのウラには何も書かれていなかったが、表紙から起算して三ページ目にハートの形に短剣が突き刺さっている絵が描かれていた。そのハートの絵の下方には血を示すらしい形とともに「血」という文字、右側には「恥」という文字があった。これらの絵や文字が具体的に何を意味するものか、また、だれが描いたものであるかについて呉さんは知らない。

 この写真帳を毘盧寺構内の便所付近に棄てたのは、羅瑾という呉さんと同じ通信隊の学生であった。呉さんと学生たちの幾人かは、以前、羅さんからこの写真帳を見せられており、この写真帳を拾ったとき、呉さんは羅さんが持っていたものだということがわかった。

 羅さんがこの写真帳をもつにいたった経緯は以下のようなことである。

 羅瑾さんは、通信隊に学生として「入隊」する以前、南京市新街口にある金陵照相館(写真館)の店員だった。一九三七年~三九年のいつだったか確定することができないが、日本の兵隊がやってきて写真の焼き付けを依頼した。羅さんはネガフィルム(これがオリジナルか否かは不明)から紙焼きを依瀕されただけだから、この写真がいつどこで撮影されたのかについてわからなかった。そのとき、羅さんは、依頼された写真を一セット余分に焼いて自分のものとした。ところが、通信隊に入ってみるとこうした品を持つことは身の危険になるとわかって棄てた、というわけである。

 呉さんも拾った写真帳をそのまま自分が所持しつづけると、自分の生命に危険が及ぶのではないかと考えた。前述のような日本人教官の言動があったからである。そこで呉さんは.拾った写真帳を毘盧寺の仏像が安置されている座布団の下に隠すことにした。<途中省略>そして日本軍が降伏し、国民党が日本の戦犯を裁くとき、その証拠資料として呉さんは写真帳を国民党に渡した。呉さんが拾った写真帳は谷寿夫の戦犯裁判の証拠として採用され、証拠のひとつとなって谷寿夫に死刑判決が下されたという。さらにまた日本の教科書の記述をめぐって問題が起こった一九八三~八四年ごろ、呉さんはむかし拾ったこの写真帳の写真(複製)が南京歴史博物館に展示されているのを見たという。もちろん一九八五年に開館された「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」にも呉さんが拾った写真帳の写真(複製)は展示されている。

[本多勝一他『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞,1991年,pp.218-220]



資料5:Carroll Alcott
(1938年から上海の放送局XMHAのニューズキャスターを勤めた。)


 日本人のプロのカメラマンのあるものは、非常に営利的な視点を持っていた。愛国的な市民として、彼らは政府に対する軍の重要性を否定することを翻し、市場価値のある、しかし鈴木にとっては大した価値のない、そういう人達のいる側でビジネスをしようとした。

 写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。

 彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。

 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。それ以外にそのような行為を撮影することができた者はいなかった。なぜならカメラを持った中国人や外国人は処刑の場に1マイルと近付くことは許されなかったからだ。

 日本兵が、無力な中国人の頭のうえで自分の刀と共にポーズをとるのは、虚栄心がその原因だ。彼の視点から見ると、ほとんど必然的な行為なのである。
 日本の伝統によれば、刀というものは、それが大きな功績に出会わない限りは、飾りとして家の壁に掛けておくような武器ではない。それどころか、日本の青年が刀を手渡されると、やいばの目的は敵の血を流すという、刀に伴う作法をすっかり思い起こさせるのである。

 このことは、戦闘になると剣術をすることに熱意を燃やす理由を説明している。郷里での面子を保つため、頭を刎ねたり、体を突き刺す必要性を感じるのだ。
 かつては、自分の刀を血の海に浸したということを郷里の人々に証明するには、自分の言葉や同僚の言葉に頼らざるを得なかった。しかし、彼が偉大な戦士であることを示すためには、今や、行動中の自分の写真を送ることができるのだ。

 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。

 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。

[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]



資料6:佐藤振寿
(東京日日新聞カメラマン、日中戦争に従軍)


 ともかく戦時中の写真検閲は、できるだけ不許可のハンを押す。国民に知らせない方がよいという大方針が打ち立てられていたとしか考えられない。それにもかかわらず、海外では日本兵の残虐、暴行などの写真がゾロゾロと発表されたのだから、驚きの一語につきる。それらの写真は、あまり上手とはいえないアマチュアの写真のようだが、チャンと抜け道があったのだ。

 たとえば上海の前線の場合である。多くの将校や下士官が、カメラを持って戦場にいた。ほんとうにドンパチの戦闘の時は、写真を撮影する余裕はない。戦闘も小休止となった時に、カメラを持ち出して撮影することになる。そんな時に、何を撮っていただろうか。たわいのないスナップや記念撮影なら結構。しかし、武勇伝まがいの首切りにレンズを向けたことがなかっただろうか。

 戦場にはカメラ店はないから、現像や焼付けができない。そこで休暇をもらったり、出張で町へ行く兵隊にこの未現像のフィルムを託すことになる。カメラ店ではこれが中国人の暗室マンによって、現像されたりする。ところが、彼らだって愛国心はある。現像済みのネガの中に、ひどい仕打ちをする日本兵の姿を見逃すはずはない。すると、こうしたネガから一枚ずつ余分に焼付けをしておく、そしてこれは現像しないで、黒い紙に包んで胸のポケットに。

 一日の仕事を終わると、なに気なくその印画紙を持ったまま、検門をパスして自宅へ帰るわけだ。もしも検門でひっかかっても、黒紙の中には白い印画紙だけしか入っていないから問題はない。開いて見られれば印画紙は感光してしまい、いくら現像しても日本兵の影も形もまっ黒で見えないわけだ。こうして持ち出した印画紙は、安全な場所で現像すれば、そこでちゃんと日本兵の写真ができることになる。そして、海外でそれが反日の好材料として発表されたのであった。

[『1億人の昭和史 10不許可写真史』毎日新聞、1977年、佐藤振寿「不許可となった写真ち」]



資料7:董顕光
(国民党中央宣伝部副部長、中央宣伝部は中国の国内・海外向け報道の統制を行った。)


董顕光から蒋介石への 1938年5月6日付報告[註1](侍从秘書号:機密乙第5308号)

  謹しんで機密報告す:小職所属部・国際宣伝処が敵国内にて、外国人4人を日本に派遣して推進した宣伝工作につき、今般4人の中、既に3人が中国に帰還しその成果を報告したが、相当の収獲があった。報告によれば、彼等は日本に赴き、隠密裏に英語と日本語の宣伝品を携行して分別送付し、広く流布するようにとの依頼を小職所属部・国際宣伝処より受け、このうち、外国人が明らかにした日本軍の暴行の文書は甚だ多く、相当の動揺を引き起こした。3人のうち一人は、更に、外国人が南京で撮影した400フィートのフィルムを携行し、東京の各国大使館・領事館員と開明的な日本の紳士と密約し、4月中旬まで、数回にわたって上映したが、日本側警察は、未だ彼等の宣伝の形跡に気づいていない。彼等は、また、第三国人と日本人自身が戦争地区での暴行を撮影した写真の多数のセットを携行し、秘密裏に東京各国大使館・領事館員に分け与えた。このような写真の一セットを報告に添付する。これは日本軍人が戦争地域で撮影し、上海に送って現像され、小職所属部によって、紆余曲折の後[註2]、捜しあてられたものである。日本人自身が撮影した暴行は、その意図を推し量るに、その武威を誇示したいとでもいうのであろうか?<以下省略>
[『民国档案』2000年第4期, p.7]

引用者註:
[註1]報告:原文にある「簽呈」(せんてい/qian-cheng)は、正式呈文より簡便な陳述書のこと。
[註2]紆余曲折の後:原文では「転輾」で、「転々とし」という意味に思われるので、「紆余曲折の後」と訳した。




(5)資料の原文

資料3原文:(John B. Powell)


 I also saw nmerous pictures snapped by the Japanese them-selves, showing Chinese being beheaded by Japanese soldiers, and I possessed one revolting picture of a Chinese woman who had been raped by two Japanese soldiers who were shown in the picture standing by the body of their victim. The Japanese have a weakness for photographing each other, and could not resist
photographing even their own barbarous acts. I obtained the prints from a Korean photograph shop in Shanghai, where the films had been sent to be developed. The soldiers apparendy wanted the prints to send to their friends at home in Japan.
 Japanese soldiers seemingly had no feeling whatsoever that their inhuman actions transgressed the tenets of modem warfare or common everyday morals.
[John B.Powell, "My Twenty-five Years In China",p.308]



資料5原文:(Carroll Alcott)


 Some of the professional Japanese photographers had an exceedingly commercial point of view. As patriotic citizens they turned over negatives of military importance to their government, but tried to do business on the side with those which had market value and were not of great value to Mr.Suzuki. Photographic goods stores did a bustling trade in
pictures of battle scenes of the Shanghai hostilities of 1932 and 1937. They not only capitalized on the destruction their armies had caused, but did not hesitate to peddle pictures of atrocities committed by their own troops.
 Many of the pictures of Japanese atrocities which have appeared in American publications were taken either by Jap soldiers themselves or by Jap photographers. Nearly all the photographs of this type that I purchased in Shanghai were sold to me by ronin working for Jap photographers.
 Pictures of Japanese troops swinging their swords on the necks of kneeling Chinese, or aiming pistols at the backs of bound captives, were taken by the Japanese themselves. No one else could have photographed such acts, became Chinese and foreigners with cameras were never allowed to get within a mile of executions.

 It was vanity that caused the Jap soldier to pose with his sword over the head of some helpless Chinese. From his point of view, it was almost necessity. According to Japanese tradition, the katana (sword) is not a weapon to be hung on the walls of the home as a decoration unless it has seen much active service. On the contrary, when the Japanese youth is handed his sword he is reminded throughout the accompanying ceremony that
the purpose of the blade is to draw the blood of an enemy.
 This accounts for his eagerness to engage in kenjutsu (swordplay) when he gets into battle. To Save face at home he finds it necessary to whack off heads or run men through the body. Once he had to depend on his own or his comrades' word to prove to the home folks-that he had given his sword a blood bath, but now pictures of him in action can be sent home to show that he is a great warrior.
 Frequently Japanese photographers moved through the battle zones or behind them where captives were held andb took such pictures, charging the soldiers for their services.
In most cases, however, the soldiers carried their own cameras and took their films to Japanese camera shops for developing and printing. The shops made negatives and prints, then ran off more prints and put them on sale.
 The Japanese command made no effort to stop this practice until the pictures started appearing as anti-Japanese propaganda. This was a different matter, and orders were issued to stop the sale of such photos immediately. Photographers, military or civil, who disobeyed were threatened
with drastic punishment, and the officials went a step further and interfered with a Japanese tradition by forbidding soldiers to take such pictures.
[Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company,pp.302-304]



資料7原文:(董顕光)
董顕光致蒋介石簽呈(侍从秘書号:機密乙第5308号)
(1938年5月6日)


  謹密呈者:職部国際宣伝処前因在敵国境内推進宣伝工作,曽派外人四人赴日,茲四人中已有三人返華,報告工作成績,尚有相当収獲。据報告称,彼等赴日,将職部国際宣伝処嘱其秘密携去之英日文宣伝品分別遞送,流伝頗广。此中開有外人叙述日軍暴行之文件甚多,頗引起相当波動。三人之一,更携有外人在南京所摂日軍暴行影片四百尺,曽密約東京各使領館人員及開明之日本士紳作数次演映,迄四月中旬,日方警察尚未発現彼等宣伝之迹象。彼等復携有第三国人及日人自己所撮戦区中暴行照片多套,秘密分贈東京各国使領館人員。随呈附上此種照片一套,此為日軍人在戦区所摂,送至上海洗印,由職部転輾覓得者。日人自摂暴行,測其用意,[しんにゅう+台]進欲表示其威武歟?
[『民国档案』2000年第4期, p.7]
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