特別な日

「ただいまー」
 水色の厚手のジャンパーに茶色のマフラーを巻き、ランドセルを背負った未来が小学校から帰って来て
部屋に入ると、入口のすぐ脇にある机に座っていた悠貴が振り向き、彼女に笑顔を見せた。
「あ、お姉ちゃん、お帰り」
「あ、悠貴、こっちにいたの?」
 未来も弟ににこやかな笑みを返すと、マフラーをほどきながら彼の方へと一、二歩歩み寄った。
「あのね、悠貴…」
 ジャンパーのポケットに手を突っ込み、未来は何かを言いかけたが、そこで弟が手にしている物に
気が付くと、笑顔を強張らせて言葉を止めた。ハート型をした、掌にすっぽり収まるほどの大きさの、
齧りかけのチョコ…。「あんた、それどうしたの?」

「あ、これ?」悠貴は手に持ったチョコに目を落とし、それから顔を上げるとにこにことしながら
言った。「ママがくれたんだ、バレンタイン・デーだからって」
 そう、今日は2月14日、バレンタインだ。しかし、まだ小2の悠貴がチョコを貰っているのは
意外だったが、母親からというなら納得だ。どこかほっとしながら、未来は弟に訊いた。
「そういえばママは?」
「もうお仕事にいったよ」
「なんだ…」
 悠貴が顔を曇らせて答えると、未来は少し不機嫌そうに呟いた。母は最近仕事で家を空けることが
多く、今日のように悠貴と二人で留守番を頼まれることが多かった。悠貴のチョコは、そのお詫び代わり
なのかもしれない。

 ま、いいか別に。未来は心の中で呟いた。六華女学院に合格してようやく受験勉強から解放されたと
思ったのに、今度は、中学で落ちこぼれないように今からしっかり勉強をしろとうるさいのだ。
それよりも…「ね、悠貴」
 未来は不機嫌そうだった顔をなんだか嬉しそうにすると、弟に一歩近寄った。が、その時、悠貴の机の
上にも何個かのチョコが置いてあるのが見えて、未来は再び顔を強張らせた。チロルチョコや銀紙に
包まれたアーモンドチョコといった、明らかに大勢に配るための一口チョコに混じり、どう見ても
『義理』以上の意図がこめられた、リボンのかかった小箱も二つばかり置いてある。

「こっちはね、学校で貰ったんだ」
 未来の視線に気付いた悠貴が、にこりとなって答える。
「へ、へぇ、まだ二年なのにもうチョコをあげたりするんだ…。よかったじゃない、悠貴」
「うん!」
 未来がどこか不機嫌そうなのに気付かず、悠貴はさらににこにことなって頷くと、ふと気がついた
顔をして机に置いてあったチロルチョコを手に取り、彼女に向けて差し出した。
「そうだ、お姉ちゃんも欲しい? わけてあげるよ」
「別に…」
 だが、未来はいっそう不機嫌そうにぷいっと横を向くと、部屋の奥にある自分の机へとすたすたと
歩み寄り、ランドセルを乱暴に椅子の上に置くと、踵を返して部屋の外へと向かった。ドアから出ていき
かける未来の背中に、チョコを差し出したままで悠貴が声をかける。
「いらないの? お姉ちゃん、チョコ好きでしょ?」
「あんたが貰ったんだからあんたが食べなさいよ、バカ!」
「……」
 怒気の籠る声に、さすがに姉の機嫌が悪いのに気がついた悠貴は、しかしその理由が分からずに、
ぽかんとなってリビングへと消えていく未来の背中を見送った。

(はーあ…)
 リビングのテレビの前に置いてあるテーブルに座った未来は、ポケットに突っ込んでいた手を出した。
そこには、ピンクのリボンのついた、ワインレッドのハート型をした箱が握りしめられていた。
いわずもがなのバレンタインチョコだ。未来はそれをテーブルに置くと、頬づえをついてため息混じりに
見つめた。
 小学校生活最後のバレンタイン。しかも未来が合格した六華女学院はちょっと離れたところにあるうえ、
名前の通りの女子校で、今の学校の男子と顔を合わせることはほとんどなくなるだろう。だから、
その前に気になる子にチョコを渡そう。幼馴染で、一緒の中学に行くことになったマユにそう勧められ、
未来はこのチョコを買っていたのだった。
 しかし未来には特に渡したい相手などおらず、いちおう学校に持っていったが結局誰にも渡さない
ままに、こうして持って帰ってきてしまっていた。悠貴にでもあげればいいや、きっと喜ぶだろうな…。
そんなことを考えていたが、母や他の女の子にチョコを貰ってにこにこしている悠貴を見たら、なんだか
気が抜けてしまった。あれだけ貰ってるなら、別にあげなくたっていいや。一枚増えたところでたいして
喜びもしないだろう。

(どうしよ、これ…)
 悠貴でなければあとは…。未来の脳裏に、ちらっと父の顔が浮かぶ。しかし、ここのところ自分たちに
母への愚痴を聞かせたり、自分たちをダシにして母に嫌味を言ったりすることの多くなった父を、未来は
嫌っていた。パパにあげるくらいだったら自分で食べるほうがよっぽどマシだ…(あ、そうか…)

 未来はハッと顔をあげた。そうだ、なにも無理に誰かにあげることはない。自分で食べちゃえば
いいんだ。「うん、そうしよ」
 未来は自分の思いつきに頷くと、箱を手に取って包装紙を剥がし始めた。


「へへ…」
 箱の中から出てきた、掌大のハート型のチョコに、ちょっぴり憂鬱だったのも忘れて未来は
目を輝かせた。結構高かったのだから、きっと美味しいはずだ。
「うわ」
 チョコを両手で取りあげた未来は、小さな声を漏らした。柔らかくなってたチョコが、指にべっとりと
ついてしまったのだ。下校中、悠貴になんと言って渡そうかと考えながら、ポケットの中でずっと
握りしめていたせいだろう。口の中ですぐ溶けるというキャッチコピーがついていたが、それは
伊達ではなかったようだ。

 未来は、チョコを持つのを左手だけに任せ、右手の指についたチョコをペロリと舐め取った。
(ん…美味しい…)
 指先についたほんのわずかな分だけでも、よく食べる安い量販品の物とはまるで違う、滑らかで
クリーミーな味わいが、口の中に広がる。思った通り、高いだけのことはあったというわけだ。
未来はわくわくしながら、ハートの右上あたりにパクリと齧りついた。
「んふ…」
 一口齧り取り、舌の上で転がすと、チョコはすぐさま溶けて口の中いっぱいに濃厚な味が広がり、
未来は幸せそうな笑みを浮かべた。悠貴になんかあげなくてよかったかも…。そして未来は顔を綻ばせ
ながら、一口、また一口と、ハートを齧っていった。

「あ、お姉ちゃんもチョコレート食べてる!」
「むぐ!」
 そうやって未来が黙々とチョコを齧っていると、不意に横から悠貴の声がして、彼女はチョコを喉に
詰まらせかけて目を白黒させながら、慌てて残ったチョコを身体の影に隠すと振り向いた。
「ゆ、悠貴、いたの?」
「お姉ちゃんもチョコ貰ったの?」
 いつの間にかリビングに来ていた悠貴が、未来がチョコを隠しているあたりを見つめながら訊く。
もうバレているんだから隠していても意味がないと、未来はチョコを弟の見えるところへと出し、
つんとした顔で言った。
「貰ったんじゃないわよ、自分で買ったの」
「へぇ…」
 悠貴は指を咥えて物欲しそうな顔で、彼女の持つ食べかけのチョコを見つめていたが、やがて顔を
上げると彼女に訊ねた。
「お姉ちゃんはチョコくれないの?」
 その言葉に、未来は頬がかぁっとなるのを感じ、慌ててそっぽを向いて吐き捨てるように言った。
「な、なんでわたしがあんたにチョコをあげなきゃなんないのよ!」

「……」
 途端に悠貴が悲しげな顔になる。そして彼は指をくわえたまま上目遣いで未来を見ると言った。
「僕、お姉ちゃんからチョコ貰いたかったな」
「う…」
 例え弟とはいえ、そんな表情でそんなことをストレートに言われ、未来は頬が熱くなるのを感じずには
いられなかった。「な、なに言ってんのよ、バッカじゃない?」と、未来は照れ隠しにそっぽを向いた
まま乱暴に言った。だがすぐに、ちょっとキツく言い過ぎたかなと気になって、横目でそっと弟の様子を
伺うと、悠貴はしょげたような顔をして、じっと彼女の手のチョコを見つめていた。

 そんなにわたしのチョコ欲しかったのかな…。未来は罪悪感と共に嬉しさを覚えたが、生憎とそんなに
欲しそうな顔をされても、チョコはこの一つだけで他に用意していない。まったく、欲しいんなら
最初から言えばいいのに…。内心で理不尽に悠貴に怒りながら、未来はどうしようかと考えを巡らせた。
新しいチョコを買ってこようか? しかしそこまでするのは、弟にチョコをあげたがっているみたいで
なんか嫌だ。かと言って他にチョコはないし…。
「ああもう、そんなに欲しかったんならこれあげるわよ」
 少し逡巡したのち、未来は持っていた、半分近く齧った残りのチョコを悠貴に突き出した。ハート型
だったものは今や左半分しか残っておらず、その残りも、柔らかくなっていたのを摘まんでいたせいで、
指の形に窪みがついている。我ながら嫌がらせに近い気がしたが、他にあげられるチョコはないのだから
しかたがない。文句があるなら食べてくれなくて結構だ、別に貰ってほしいわけじゃないのだし…。

「わぁ…」だが、差し出されたそのチョコに、悠貴は顔を綻ばせると未来の横にちょこんと座り、両手を
彼女に差し出した。「ありがとう、お姉ちゃん!」
「え? あ、はい…」
 こんな食べかけのチョコに大喜びするなんてと、未来が呆れ半分嬉しさ半分でチョコを弟に手渡すと、
悠貴はにこにことしながら、さっそくそれを口へと運んでいった。

 あーん、と悠貴が大きく口を開けて、がぶりとチョコに食いつく。あ、間接キス…。その様子を
なんとはなしに眺めていた未来の頭に、ふとそんなことが浮かび、彼女は頬を赤らめると悠貴からさっと
顔を背けた。なに考えてんだろ、悠貴と食べかけのお菓子を分け合うなんて、よくやることなのに…。
 きっと今日がバレンタインだからだ。未来は思った。女の子が男の子に愛の告白をする、特別な日。
だから、そんな変な事を考えてしまうんだ…。

「このチョコ美味しいね!」
 悠貴に話しかけられ、未来ははっと視線を弟に戻した。見れば、悠貴はこの上なく幸せそうな顔で、
口いっぱいにチョコを頬ばってもごもごとやっている。口に押し込むようにして食べたせいだろう、
唇の端には溶けかけていたチョコがべっとりとついてしまっている。
 そんな、いかにも子供じみた弟の姿に、未来は思わず相好を崩した。まったく、子供なんだから…。
そして、こんな子供にどぎまぎするなんてと、未来は微苦笑を浮かべ、悠貴の口許へ指を伸ばした。
「もう、チョコついてるわよ」
 未来は悠貴の口端についたチョコを指先できゅっと拭った。が、上手く拭いとることができず、
むしろチョコを塗り広げてしまう。「う…」
 未来は少したじろぐと、チョコのついた指先をぺろりと舐めながら、ティッシュを探して辺りを
見回した。だが、生憎と手近なところにティッシュの箱は見当たらない。部屋まで取りにいこうか?
それとも他に使えそうなものは…。

「もう、しょうがないなぁ…」
 適当なものが見当たらず、未来は考えあぐねた末に、弟の方へ身を乗り出した。「じっとしてて…」
そして未来は悠貴の肩を掴んで顔を近寄せていくと、舌を突き出して弟の口の横をペロリと一舐めした。
 チョコの甘い味…。未来は顔を離すと、くすぐったそうな顔をしている悠貴を見つめた。そして、
チョコがまだ完全に舐め取れていないのを見て、もう一度顔を寄せて弟のほっぺに舌を這わせた。
 別に変なことじゃない、ママだってよくやってるし。ぺろ、ぺろとチョコを舐め取りながら、未来は
自分に言い聞かせた。今日はバレンタイン、特別な日なんだから、ママの真似くらいしてあげたって
いいだろう。これは最近仕事が忙しい母にあまり構ってもらえず、寂しそうだった弟へのバレンタインの
ちょっと特別なプレゼントだ。

「ふふふっ…」
 くすぐったさに悠貴が含み笑いを漏らして身じろぎする。
「ほら…動かないの…取れないじゃない…」
 未来はそう囁きながらちろちろと舌を動かし、悠貴の頬についたチョコを舐め取っていった。チョコの
甘い香りとは別の、子供特有のほの甘い匂いが漂う悠貴の頬を、未来は外側のほうから徐々に唇の方へと
舐め進め、そして唇に舌が触れる寸前、彼女は舌をそっと引っ込めた。そしてわずかな躊躇ののち、
さっと口を近寄せると、未来は悠貴の唇の端に自分の唇を擦るように一瞬触れさせ、すぐに顔を離した。

(…はっ!?)
 そのままぽーっとした顔で、ぽかんとしている弟を見つめていた未来は、数拍おいてから我に返って
頬を赤らめた。(キス…しちゃった…)
 バードキスとすら呼べないような、口の端にわずかに擦っただけの、軽く短いキス…。だがそれは、
間違いなくキスであった。自分のしたことに驚き恥じらい、今さらのように未来の胸はどきどき高鳴り
始めた。
 なんでわたし、そんなこと…。未来はどぎまぎしながら自分に問いかけた。きっとこれも、今日が
バレンタインだからだ。きっとそうだ…。(そ、それに、チョコが半分しかなったしね…)
 さらに未来は、動揺しながら頭の中で付け加えた。キスはその分のおまけ、これもバレンタインの
特別なプレゼントだ。そう、全部バレンタインのせいなんだ…。

「ありがとう、お姉ちゃん」
「い!?」
 あれこれ頭の中で自分に言い訳をしていた未来は、弟にお礼を言われ、赤らめていた顔を完全に
真っ赤にさせた。だがそれは、ほっぺを綺麗にしたお礼を言ったのだとすぐに気付き、未来は心を
落ち着けた。キスに気が付かなかったのか、それもついたチョコを綺麗にしていただけと思ったのか、
いずれにしろ、悠貴は特別なことがあったとは思っていないようだ。
(キスに気付かないなんて、ホントまだまだ子供だな悠貴は…)
 安心したようなちょっぴり残念なような、拍子ぬけした気分になりながら、未来はテーブルに頬杖を
ついて優しげな微笑みを浮かべ、残りのチョコを美味しそうに頬張る悠貴をじっと見つめた。


「…ねえ、悠貴」
 やがてすっかりチョコを平らげ、指についたチョコをぺろぺろと舐めている悠貴に、未来は
ゆっくりと口を開いた。
「なに、お姉ちゃん?」
「今日は一緒にお風呂入ろうか?」
「うん!」

 朗らかに返事をする弟に、未来の口許が緩んだ。今日は両親の帰りは遅い。まだまだ色々と、悠貴に
特別なプレゼントをしてあげられそうだ……



 おわり
最終更新:2010年03月11日 20:10
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