哲学的ゾンビ


概説

哲学的ゾンビ(英:Philosophical Zombie) とは、デイヴィッド・チャーマーズによって提起された心の哲学における思考実験である。外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、内面的な経験(現象的意識クオリア)を全く持っていない人間と定義される。ホラー映画に出てくるゾンビと区別するために、哲学的ゾンビ(または現象ゾンビ)と呼ばれる。おもに性質二元論(または中立一元論)の立場から物理主義とその範疇にある行動主義機能主義の立場を批判する際に用いられる。

哲学的ゾンビは、フランク・ジャクソンによるマリーの部屋の思考実験の発展型である。チャーマーズ自身も、マリーの部屋の「知識論証」は「ゾンビ論証」とペアになったときに最も力を発揮すると主張している。一般にマリーの部屋と哲学的ゾンビはセットにされて批評されることが多い。

※哲学的ゾンビに対する主要な応答はマリーの部屋に対する三種類の応答を参照のこと。

想像可能性論法

ゾンビの概念を用いて物理主義を批判するこのような論証のことを「ゾンビ論法(Zombie Argument)」、または「想像可能性論法(Conceivability Argument)」と呼ぶ。逆転クオリアの思考実験も同様の論法である。チャーマーズはこの論法によって意識のハードプロブレムの物理主義的な解決は不可能であると主張した。

想像可能性論法からは世界そのものの在り方に関する可能性――形而上学的可能性(meta-physical possibilitiy)が帰結すると考えられている。たとえば丸くかつ四角いボールは想像不可能なだけでなく、いかなる世界でもありえない。しかし赤いボールが青いという状況は想像可能である。つまり想像可能性は形而上学的可能性を帰結するとは、世界のあり方としてどのようなあり方が可能であり、どのようなあり方は不可能なのかをわれわれが知りうるとすれば、さまざまな状況の想像可能性を通じてであるほかは無いからである。

もしゾンビが想像可能であるとすれば、ゾンビは形而上学的にも可能である。すなわち心的状態を有しているのと全く同じ物理的状態にありながら、心的状態を欠くものが存在しうることになる。その可能性が認められるなら、物理的状態を記述するだけでは心的状態の説明ができず、従って物理主義は間違っているということになる。

チャーマーズは付随性の概念を「論理的付随性」と「自然的付随性」の二つに分け、意識体験は物理特性に自然的に付随しているが、論理的に付随しているわけではないということを哲学的ゾンビの思考実験で証明しようと試みる。意識体験を全く欠いた世界――哲学的ゾンビだけがいる可能世界のことを、ゾンビワールドという。ゾンビワールドが論理的に可能であれば、意識体験の事実とは物理的事実とはまた別の、われわれの世界に関する更なる事実である。それはゾンビワールドに欠けているが、私達の現実世界には備わっているクオリアという事実である。それは物理的事実には含まれておらず、また物理的事実だけからは出てこない、という点を強調し、ゆえに唯物論(物理主義)は間違っていると結論する。

2つの哲学的ゾンビ

哲学的ゾンビには次の2種類がある。

1、行動的ゾンビ(Behavioral Zombie) 外面の行動だけは普通の人間と区別できないゾンビ。解剖すれば人間との違いが分かる可能性がある、という含みを持つ。例えばSF映画に出てくる精巧なアンドロイドは、「機械は内面的な経験など持っていない」という前提で考えれば行動的ゾンビに当たる。

2、神経的ゾンビ(Neurological Zombie)脳の神経細胞の状態まで含む全ての観測可能な物理的状態が普通の人間と区別する事が出来ないゾンビ。通常、哲学的ゾンビと言う場合こちらのことを指す。現象的意識が欠如しているという意味で「現象ゾンビ」ともいう。

哲学的ゾンビはその定義から、普通の人間と全く区別がつかないとされる。特に神経的ゾンビの場合には頭を解剖しても普通の人間と区別できない。哲学的ゾンビは外から見る限りでは、普通の人間と全く同じように、笑いもするし、怒りもするし、熱心に哲学の議論をしさえする。普通の人間と哲学的ゾンビの唯一の違いは、哲学的ゾンビには行動に伴う感覚が全くなく、クオリアという内面的経験を全く持たないということである。

哲学的ゾンビが実際にいると信じている人は哲学者の中にもほとんどおらず、思考実験によりクオリアの存在を浮き彫りにすることが目的である。また「なぜ我々は哲学的ゾンビではないのか」という問題も心の哲学の他の諸問題と絡めて議論される。

意識の定義――機能的意識と現象的意識

ゾンビ問題を理解するためには、「意識」という言葉がいくつもの意味で使われる多義語であることに注意する必要がある。 チャーマーズは意識の概念を二種類に分けた。

1、機能的意識(心理学的意識)
機能的意識(心理学的意識)とは、『人間が外部の状況に対して反応する能力』のことである。脳を物体として捉える観点から言えば、入力信号に対して出力信号を返す脳の特性としての意識である。これは外面的に観測することができる客観的な特性である。 チャーマーズは機能的意識に関する問題を、意識のイージープロブレムと考える。心理学的意識とも呼ばれるのは、心理学ではクオリアは問題の対象となっていないからである。

2、現象的意識
現象的意識とは、『主観的で個人的な体験』のことである。外部からは観測できない主観的な特性――意識体験、現象、クオリアを有した意識である。機能的意識と対比させるときは現象的意識という名前で呼ばれる。 チャーマーズは現象的意識の問題を、意識のハードプロブレムと定義して、心の哲学が探求すべき核心的な問題だと考えた。

以上の二種類の言葉を用いて哲学的ゾンビをより厳密に再定義すると、「哲学的ゾンビとは、意識の機能的な側面に関しては普通の人間と全く同じだが、一切の現象的意識を欠いた存在のこと」となる。

ゾンビ論法的思考実験の歴史

ゾンビ論法と類似したタイプの議論、つまり「意識体験」と「物質の形や動き」との間に論理的なつながりが見出せない、というタイプの議論は、歴史上様々な形で論じられている。歴史を下るにつれて議論は洗練されていく。

1、ライプニッツによる風車小屋の思考実験
思考できる機械があるとして、その機械を風車ほどまで大きくしたとする。このとき、そのなかに入って周りを見渡したら、いったい何が見えるだろう。17世紀、ライプニッツは著書『モナドロジー』の中で、以下のような思考実験を行っている。
ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るように、その中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものといえば、部分部分が互いに動かし合っている姿だけで、表象について説明するに足りるものは決して発見できはしない。
この風車の議論から、ライプニッツは、モナド――ライプニッツが存在すると仮定したこの世界の基本的構成要素の、内的な性質として表象を位置づけていく。

2、ラッセルによる世界の因果骨格の議論
20世紀前半、哲学者バートランド・ラッセルが『物質の分析(Analysis of Matter)』(1927年)を中心に様々な著作の中で展開した議論の中にも、同種の議論が見られる。ラッセルは物理学はどのようなものか、ということの分析を行う中で、物理学は対象と対象の間にどのような関係があるかを扱うが、そうした関係をもつ当の対象の内在的性質が扱えないとして、物理学が行う世界の記述を外形的なもの、「世界の因果骨格(Causal Skelton of the World)」を扱ったものだとした。
物理学は数学的である。しかしそれは私達が物理的な世界について非常によく知っているためではなく、むしろほんの少ししか知らないためである。私達が発見しうるのは世界の持つ数学的な性質のみである。物理的世界は、その時空間な構造のある抽象的な特徴と関わってのみ知られうる。そうした特長は心の世界に関して、その内在的な特徴に関して何か違いがあるのか、またはないのかを示すのに十分ではない。私達が直接に経験する心的事象である場合を除いて、物理的な事象の内在的な性質について、私達は何も知らない。

3、クリプキによる世界創造の議論
20世紀中盤、哲学者ソール・クリプキが行った、神様の世界創造を喩えに用いた論証がある。この論証はクリプキの講義録『名指しと必然性』の最終章に収録されているもので、これはしばしば様相論法(modal argument)と呼ばれる。以下のようなものである。
神様が世界を作ったとする。神様は、この世界にどういう種類の粒子が存在し、かつそれらが互いにどう相互作用するか、そうした事をすべて定め終わったとする。さて、これで神様の仕事は終わりだろうか? いや、そうではない。神様にはまだやるべき仕事が残されている。神様はある状態にある感覚が伴うよう定める仕事をしなければならない。

物理主義からの批判

物理主義の立場から寄せられるゾンビ論法への批判は、現時点の私たちにゾンビは一見論理的に可能(logicaly possible)に思えることは認めつつ――これはしばしばゾンビ直感(zombie hunch)と呼ばれる――そうした直感は主に現在の私たちの神経系への無知に起因する、という形で行われる。つまり神経系への理解がまだ中途半端な段階にあるから現象体験を完全に欠いた人間の機能的同型物などというものを想像できるのであり、もし神経科学の知識が深まっていけばそうした存在は論理的に不可能であると理解できるだろう、と。これはア・ポステリオリな必然性からの議論と呼ばれる。

またレヴァインは、想像可能性とはきわめて空疎な概念なので形而上学的可能性を帰結しないと反論している。

補足

もし現象的意識をもたないゾンビが人と同じ行動をとれるなら、現象的意識は何の役割も果たしていないことになる。ゾンビ論法は随伴現象説を含意しているとの指摘がある。ただしチャーマーズは物理主義を批判する手段としてゾンビ論法を用いたのであり、われわれの「この世界」においては現象的意識の付随性は必然的であると考え、心身関係論においては中立一元論の立場である。


  • 参考文献
信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』 勁草書房 2004年
デイヴィッド・J. チャーマーズ『意識する心―脳と精神の根本理論を求めて』林一 訳 白揚社 2001年
  • 参考サイト


最終更新:2013年04月17日 20:19