実体


(管理者がWikipediaの文を加筆修正)

概説

実体とは、哲学用語で真に実在するものの意。性質や様態のように何かに属していたり、何かによって構成されているようなものではなく、「真に在るもの」を指していう。その様々な特性が、属性と呼ばれる。

ギリシア哲学におけるアルケー、またはウーシアとその同義語としてのヒュポスタシスに由来し、「本質」および「実在」とは語源的にも哲学的にも深い関連を有する。

実体概念の誕生と変遷

エレア派

実体の概念はエレア派の存在についての思考に負うところが大きい。エレア派は物事を考える上で誰しも前提にせざるを得ない同一律、矛盾律を厳密に突き詰めれば、生成変化は有り得ないとと考えた。

パルメニデスはいう「事物は在るか無いかである。在るものは在るし、無いものは無い」

ところが、事物が別のものに変わるとすれば、在るものが無くなり、無かったものが在るようになる。二つの対象が、端的に異なる対象なのではなく、ひとつの対象の生成変化であるというためには、どこかの時点で、この対象は、或るものでもあり、かつ別のものでもある、ということが許されなければならない。しかし、これは矛盾律(Aは非Aではない)に反する。どれほど似ていようと、どれかの時点についていう限り、どの時点においても、そのものは、Aであるか、そうでないかのどちらかでしかない。

とはいえ、現実には生成変化は観測される。生成変化するものは、矛盾しているがゆえに、実在ではない。生成変化は、感覚が欺かれた結果なのであり、経験的対象も、真に存在する対象ではないがゆえに生成変化する。このような論理から要請された、「真に存在するもの」が「実体」である。

デモクリトス

エレア派の論点を考慮にいれつつ、しかも存在するものの多数性と生成変化の事実とを肯定しようとして、その後デモクリトスは原子論を唱え、生成変化しないアトムを実体とし、その離合集散が、経験される生成変化であるとした。

プラトン

プラトンは生成変化する世界と、その形相となるイデアの世界を考えた上、真に存在する実体は、感覚でなく理性によって捉えられるイデアのみであるとした。これは変化を否定するパルメニデスと、変化を肯定するヘラクレイトスやデモクリトスの論理を調和させようとした試みでもある。

アリストテレス

アリストテレスは種・類などの普遍的概念を「第二実体」とし、それと対比された具体的個物を「第一実体」とした。第一実体は述語によって記述される主語/主体であり、自らは述語にはならないと考えた。他方では、質料と対比された形相を第一の実体ともしている。

スピノザ

スピノザは神をおいて実体はないと考えた。実体の存在は永遠の概念の下にのみ説明されうるとしている。延長と思惟はデカルトと異なり、唯一の実体である神の永遠無限の本質を表現する属性である。そして、個別の物体は延長という属性のひとつの様態である。精神と物体は同一の実体の異なる属性であるから、精神と身体の相互作用というデカルト的問題はそもそも生じない。(心身平行論)

ライプニッツ

ライプニッツは実体のモデルとしてモナドを考えた。集合的に構成されたものは当然、実在しているとは言えず、その構成要素から、その存在を受け取っているものと考えるほかない。そしてものを要素へと分割していけば、いつかは本当に存在しているものでかつ「まったく要素を持たない厳密に単純な」ものへとたどり着くはずである。このような論理から出てくる非延長的な実体がモナドであった。このモナドは相互作用するかに見える(予定調和)が、それにもかかわらずモナドは、全体としての世界を反映しつつ(モナドは鏡である)、相互に独立している(窓がない)ものと説かれる。

ヘーゲル

ヘーゲルはスピノザの唯一の実体である神は自己原因であるという考えを批判的に継受しながら、実体は、絶対知へと自己展開する精神であり、主体として考えるべきだとした。現実に存在するものは合理的であり、その相互対立の弁証法によってますます絶対知の完成へと自己展開していく。そのような意味で、実体は対立を乗り越えて完成へと向かう主体なのである。

仏教

仏教においては、「空」を主張した学派によって、主語・実体・実在が否定され、状態・様態・生成変化・関係性のみがあるとされた。般若心経では「色即是空」と説かれる。これは、かたちづくられたものには実体はないこと、他によって存在しているものであり、縁起していることを意味している。

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最終更新:2010年12月20日 02:10